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べしゃり、という音がしたと思ってさくらが振り返ると、ぬかるんだ地面に両膝をついた沙耶の姿があった。
昨晩しとしとと降っていた雨が、今朝には霧雨に変わっていた。地面はたっぷりと雨を吸い、吸いきれなかった地表は水を小さな池のように溜めた。そうしてできた水たまりが昼過ぎになっていくつも出来ていた。
そしてまさにちょうどそこへ、沙耶が膝から崩れ落ちたところだった。
「沙耶ちゃん! うわ、大丈夫?」
慌てて駆け寄るさくら。
今日は雨ということで、赤いドレスではなく動きやすい旅用の服を着ていた。フード付きのマントの下には色味の抑えた藍色のチュニックを着て、そこからショートパンツを覗かせていた。靴は頑丈そうなヒールのない革のロングブーツを履いている。ドレスと比べると随分と落ち着いた装いだが、それでも元の世界の旅人、バックパッカーのような人たちとの格好とは随分雰囲気が違う。さくら曰く、「どうせなら元の世界で着ることがないような可愛い服を」というポリシーだそうだ。
この動きやすい格好ならではだろう、さくらは泥跳ねなど意に介することなく沙耶の近くに走り寄る。
泥の中に座り込む沙耶の顔は青く、唇の色も引いていた。苦しげに荒く息を吐き、胸元を両手で強く押さえている。両目はぎゅっと強く閉じられている。視界に何も入れたくないのだろう。情報をできる限り遮断して回復に集中しようとしていた。
さくらはその辛そうな沙耶を見ながら、背中をさするくらいしか出来ないことに歯噛みしながら、その原因が戻ってくるのを待った。
「今日もまたレントとはな。この前もあいつじゃなかったか」
「どうでもいい! そして遅いよ!」
「はあ? ……ああ、今回も倒れなかったのか。はん。成長してるじゃねえか、沙耶」
上空から倒した魔物の魔結晶を持って、飄々としたルシファーが戻ってきた。
だが沙耶にはそんなルシファーの声すら殆ど聞こえてはいなかった。ルシファーは肩をすくめ、さくらと同様に沙耶の回復を待った。
十数分近くそこに座り込んでいただろう。小康状態になった沙耶が、ふらふらと覚束ない足取りで立ち上がった。まだ歩けはしないが、口はきけるようになったようだ。
「……ルシファー、次からはもうちょっと強い、気絶できる攻撃にできない? 気を失わないぎりぎりのとこが一番気持ち悪い……」
「んな微調整がきくような攻撃なわけねえだろ。今じゃあの手の平サイズの炎なら何発出そうが平気になったじゃねえか。いずれこれもそうなるだろうから、せいぜい頑張るんだな」
「うう……」
恨めしそうなうめき声をあげる沙耶。さくらはルシファーを小突くと、沙耶に肩を貸そうと手を伸ばす。
「ほら、沙耶ちゃん。とりあえず帰ろう。もう今日は早く寝よう、ね」
「うん……。あ、大丈夫。そのほら、泥ついちゃうし」
沙耶はそう言うとさくらの手をそっと押し戻した。
先程崩れ落ちた時の泥が膝から下にぐっしょりとついている。近寄ればさくらの綺麗な服に必ず泥がついてしまうだろう。さくらは少しむっとしたように、強引に腕を沙耶の肩に回した。沙耶は力の出ない腕で必死に抵抗する。
「そんなことを僕が気にすると思わないでよね!」
「でも……」
「じれってえ、ならこれでいいだろ」
業を煮やしたのか、ルシファーが沙耶の頭上から大量の水を落とした。頭から水をかぶった沙耶の泥は確かに全て落ちたが、水の量が多すぎてすぐ隣りにいたさくらまで全身濡れてしまった。
「ル、ルシファー!」
「お、元気になったか」
怒りで背筋ののびた沙耶の、振りかぶった拳をルシファーがひらりと避ける。拳が届かないならと罵詈雑言を飛ばしきると、沙耶は驚いて固まったままのさくらに声をかけた。
「うちの馬鹿が本当にごめん! ああ、しっかりびしょびしょに……。どうしよう」
沙耶がさくらの頭の先から爪先まで見回す。濡れてない場所を見つけるのが難しいほどに、どこもかしこも濡れそぼっていた。一風が通り抜けて、濡れた髪を顔にびたりと張り付かせた。近頃気温が下がってきた気がしていたが、こうして風が吹くとそれを一層強く感じる。全身に水を浴びた今は尚更だ。
だが今はタオルなど持ってはいない。
「ああ、そうだ。あの、このままだと風邪引いちゃいそうだし私が魔結晶出すから、よければ一緒に大浴場に行かない? 戦闘クラスの人を優先的に入れてくれるらしくて、私と一緒ならすぐに入れるよ」
「あ?」
沙耶の言葉にまずルシファーが即座に怪訝な反応を示した。そして沙耶がそのルシファーの反応に困惑する前に、今度はさくらが頓狂な声を上げた。
「――え、へえっ!?」
「あ、やっぱり一緒に入るのは流石に馴れ馴れしかった……?」
しゅんと項垂れる沙耶に、さくらが狼狽するように手を振った。
「いや、違う違う! そういうんじゃなくて、ええっと……」
「おい沙耶、正気か。混浴でもするつもりか」
「はあ? 何言ってんの。確かあそこ普通に男女で入浴時間分かれてたでしょ」
ルシファーの言葉に今度は沙耶が眉を潜めた。さくらがひくりと肩を強張らせ、躊躇いがちに口を開いた。
「沙耶ちゃん、あの、実は……」
だがその言葉をルシファーが無慈悲に断ち切った。
「だから、どうやって一緒に入る気だ。入浴時間ずれてんだろ、男とは」
「……は?」
今度は沙耶が固まった。頭が追いつかず、目だけがしぱしぱと瞬いている。隣でさくらがばつが悪そうに顔を片手で覆っていた。沙耶がゆっくりとルシファーとさくらを交互に何度も見遣る。ルシファーは信じられないものを見る目で沙耶を見ている。
「え? ……え? ええーっ!?」
沙耶の絶叫が霧けぶる木立に響き渡った。
「え、だってその格好、それに名前だってさくらって」
「あ、あー、ごめん! 全然気付かないからもう最後までこれでいいかなあ、なんて思ってまして……」
混乱を極める沙耶に、さくらが手の平を立てて謝罪の身振りをする。
「つまりは……そういうことなんだよ。ごめんね、さくらは名前じゃなくて名字なんだ」
「みょう、じ」
「えーっと、僕のフルネームは桜木圭吾。院生やってました、ぴっちぴちの二四歳です! 可愛く圭ちゃんって呼んでね!」
開き直ったように圭吾と名乗ったこの男は、そう言って顔の近くでピースサインをきめた。
「けい、ちゃ……ん」
驚きに絶句する沙耶。泡を吹くように口をぱくぱくとさせながら圭吾を見つめる。
「あーでもちょっとすっきりしたー。通りすがりの人とかならいいんだけど、流石にこんなに仲良くしてくれてる女の子をずっと騙してるみたいなの、もやもやしてたんだよね。ありがと、ルシファー」
憑き物が落ちたように晴れ晴れとした顔で、圭吾はルシファーに笑顔を見せた。ルシファーは鼻を鳴らして背を向けた。
「うるせえ、俺を気安く呼ぶな。そもそもそう思うんなら早く言え。まさかこんだけ一緒にいて気付かない間抜けがいるだなんて思わなかったんだからな」
「えぇ、いつから気付いてたの」
「会ったときから」
「ほんとに? ショックだなぁ。初対面なら大抵バレないのに。自信なくしちゃう」
賑やかしく言い合う二人とは対象的に、沙耶はその衝撃から未だ抜け出せずにいた。頭の中で今までの記憶がぐるぐると回る。記憶の奔流に脳の処理が忙殺され何も言うこともできずにいる沙耶は、目だけで圭吾の姿をなぞった。
こうして水に濡れたことで服が肌に張り付いて全身のシルエットが顕著になっている。確かに背は女性にしては高いほうだろうが、男性ならば標準的だ。男性というと喉仏が大きな違いとよく言われているが、思い返せばドレスの時も今の旅装も喉元はあまりよく見えない服装だ。骨格も女性にしてはがっしりしているほうなのかもしれないが、それでも女性の域をでない。声だって男性の声と比べれば高いほうではないだろうか。実は男性だったとわかった今でも、「男だ」と言われるほうが余程違和感がある。
「つまり……わかるかー!」
沙耶の叫び声が静かな木立に響く。照れたように苦笑する圭吾と呆れ顔のルシファーが黙ってそれを聞いていた。




