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悪夢から目覚めた時のように、沙耶ははっと飛び起きた。
心臓が早鐘を打っている。指先は冷たく、震えている。息遣いは荒く、視界が定まらない。沙耶は暫く胸を押さえて、何も考えることもできず、ただ息を整えることしかできずにいた。
どのくらいそうしていただろうか。少しずつ呼吸が落ち着いてくると、体はうまく動かないが、だんだんと思考も働くようになっていた。
「私……」
脳裏にあの時の光景がフラッシュバックする。ひゅっと息を呑んだ。
大丈夫だ、今自分は固い地面の上にいる。
「ここどこ……」
狼狽するように沙耶は周囲を見渡す。ここは崖の下でも、崩壊しかけの電車の上でもない。横を見ればさやさやと穏やかな小川が流れている。その川のほとりに立つ大きな木の陰で沙耶は横になっていたようだ。
中天に差し掛かった日の光がぼんやりとする目を刺す。辺りにはちらほらと低い灌木が見えるくらいで、あとは無造作に雑多な草々が地面を覆ってどこまでも広がっている。舗装された道などなく、下生えで足の踏み場もないほどだ。
ジーンズにスニーカーでよかった。洒落た人たちを真似てパンプスなどを履いていたらろくに歩けもしなかっただろう。この時ばかりは自分の洒落けのなさに感謝した。
「やっと目を覚ましたか」
突如頭上から男の声が降ってきた。気怠げなその声の主を沙耶が見つけられずにいる間に、主は沙耶の目の前に降ってきた。
「わっ! え、だ、れ……」
いきなり視界に現れた人物を見て、思わず沙耶は言葉を失った。
なんて綺麗な生き物だと思った。
さらりと長い黒髪は細く縛られ、絹糸のように垂れている。透き通るような肌に、真紅の宝石の如き切れ長の瞳に長い睫毛が影を落とす。端正な顔立ちにすらりと長い手足。身長は190センチ近くあるのではないだろうか。纏う服は見慣れぬ意匠のせいか、どこか幻想めいている。風にはためくロングコートに、シングルベスト、膝上まである丈のロングブーツも全て黒で統一されている。だがロングコートやベストの装飾は金色に光り、ベスト下の、胸元まで大きく開いたシャツが暗い赤色で差し色となっている。その服装も日本人離れした体格も相まって、まるで作り物めいて見えた。
そんな男が無言で沙耶を見下ろしている。今までに見たことがない美丈夫に、緊張で沙耶の体は強ばってしまう。
だがそれは彼が口を開くまでだった。
「拾ったときにも思ったが……冴えねえガキだな。色気の欠片もねえじゃん。こんなのが本当に俺の主かよ」
「……なっ!?」
男はうつむいて頭を掻きむしりながら辟易したように沙耶を見遣ると、苛々とした態度を隠そうともせず、ぐるぐるとその場を歩き回り始めた。
「ああ、くそ、最悪だ。この俺が呼び出されてるだけでも最悪なのに、その主がこんなちんちくりんの小娘だなんて。せめて豊満な美女とかならまだマシだってのに、ああ、マジありえねえ」
不躾にまじまじと見ておいて、溜め息をつき、何の気なしに人を貶す。粗野な言動に傲慢な態度。会話すらしたことのない初対面の人間へのこの振る舞い。
沙耶は確信する。この男は美人だろうが、ろくでもない男だと。
普段だったらムッとしながらもそんな人間など無視して通り過ぎただろう。こういった品性の欠片もないような横暴な人間は、安直に暴力に走るものだ。ならばそんな輩には関わらないのが一番だ。
だが今はまだ沙耶は体を動かせず、異常な出来事の後で興奮していたのだろう。気が大きくなっていたのか、普段なら胸中に秘めるだけにしていた言葉が出てきてしまった。
「誰だか知りませんけど私に文句があるならほっとけばいいじゃないですか。見ず知らずの人にそんなことを言ってのけるだなんて人間性を疑います。私もそんな理性も品性もないような人と話すことなんてありません」
「……あ? てめえ、今なんつった……?」
ぎろりと赤い目がこちらを睨んだ。そこで沙耶は自分の口から出てしまった言葉を思い出した。
“やっちゃった! ……いや、でもあの程度言い返すくらい許されるだろ、こんな無礼男”
一瞬男の気迫に怯んだが、ぐっと堪えて沙耶も睨み返す。そうして互いに睨み合った途端、男が下卑た笑みを浮かべて近付いてきた。
「はっ、度胸はあるようだな、女。この俺に悪態をつくか。それに、あーなんだ、人間性?」
男はぐいっと沙耶の顎を掴み上げた。
「人間性なんざこの俺にあるわけねえだろ、下等種族の人間風情が!」
笑いながら男がそう言い放った。
“人間じゃない? 下等種族? どういう……”
沙耶は一瞬の逡巡の後、ふと聞き返していた。
「え、いい年して中二病?」
「誰が中二病だ!」
男が面食らったように叫んだ。
その後も色々と強い言葉で沙耶を罵っているが、もう沙耶にはこの男が下品で、痛い、中二病の可哀想な人に見えていた。
自分の罵倒が通じていないと気付いたのだろう。また同時に憐憫の目で見られていることも相当頭にきたようだ。男が拳を振り上げた。
思わず沙耶が目を瞑った、その時だった。
「ぐああ――っ!」
「……は?」
沙耶の目の前で男が悲鳴を上げて崩れ落ちた。まるで雷でも落ちたかのように一瞬男の体が光ったかと思えば、悲鳴を上げ倒れる男がそこにいた。