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声が聞こえる。これは母の声だ。
ああでもこの声のトーンの時は――
「沙耶、あの件は手配してくれた? メール来てないみたいだけど」
そうだ、この声音の時は大抵こういう時だ。
「あの件って何、何も聞いてないよ」
「あれ、吉田くんったら沙耶に言ってないのかしら。彼に頼んだんだけど、わからないから沙耶に任せるって言ってたのに」
「え……また?」
顔を曇らせ声を落とす。もやりとしたものが意識にかかって、体が少し重くなったように感じる。
最近よくこの感覚になることが多い気がする。それは決まってこうして仕事を回されたときだ。
またしても声がかかる。
「あ、藤原さん。ここの取引って確かちょっと複雑な注意点がありましたよね、私わかんなくて。ミスしちゃうのもあれだし、絶対私がやるより藤原さんがやったほうが早いと思うんですけど……」
「……わかりました。メール、転送しておいてください」
「流石―! やっぱり藤原さん、優秀で頼りになります!」
そう喜色の声を上げた女性は軽快に自分のデスクへ帰っていく。ポロンと音がして画面を見ると、メールが転送されてきていた。随分と早く送れるものだ。まるでそうすることが決まっていたかのように。
見れば先程の彼女は帰り支度を始めている。
「仕事片付いたから帰りまーす。お先に失礼しまーす」
そう言うなり、彼女は鞄を引っ提げて帰っていった。沙耶は義務的に「お疲れ様です」と口の中で呟くと、再度自分のパソコンに向き合う。窓から微かに夕日が差し込んでいる。その夕日ももう落ちるだろう。だがパソコンの中のメールボックスにはまだ未読のメールが並んでいる。なんなら先程一件増えた。
沙耶は溜め息と共に天井を仰ぎ見る。
“あれ、うちの事務所の天井ってこんな模様だったっけ……”
見覚えのない天井に沙耶が目を瞬かせる。何か、何かおかしい。一体何だったか――
「起きたか」
見覚えのない天井に見覚えのある顔がひょっこり顔を出した。だがこの見覚えはかなり最近の――
「……ルシファー」
一気に沙耶の意識が現在に戻ってきた。自分がいるのは自宅の一階にある事務所じゃない。ここ幻視界の大学の教授室だ。窓から見える空は青く、心地いい風が吹き込んでいる。
そうだ、さっきまでの光景は夢だったのだ。何とも生々しく、憂鬱な夢に溜め息が出た。
「おい、起き抜けに溜め息たあ、失礼な奴だな」
「ん、ごめん。ルシファーにってわけじゃないんだけど、ちょっと、ね。……う」
起き上がろうとした沙耶だったが、途端にぐわんと視界が回った。思わず目をつぶるが、真っ暗な視界がまだ揺れているような感じがする。沙耶はうめき声を上げて、両手で顔を覆った。
「まだ寝てろ。動ける状態になるまで魔素が回復しきってないんだろ」
そう言うと、ルシファーは沙耶を押し付けるように寝かしつけた。沙耶も大人しく再び横になり、目をつぶった。そしてすぐに眠りについてしまった。
沙耶が目を覚ましたのはそれから何時間経った頃だっただろうか。窓の外が暗くなっていた。周りを見渡すと、本棚にもたれかかるようにしてルシファーが眠っていた。目を閉じているだけに見えるが、胸が僅かに上下し、微かだが寝息のような規則的な呼吸音が聞こえる。
沙耶はルシファーが眠っているのをちゃんと見るのは初めてだと気がついた。途端、急激に胸にこみ上げるものがあった。
“ルシファー、何だかんだ文句言いつつ、私が倒れるといつもずっと傍にいてくれてる”
退屈なら沙耶など置いてどこかへふらっと行けばいいのに、そうすることはしない。ショッピングセンターの時のことを考えるに沙耶から離れられない、というわけでもないだろう。だがルシファーはこういう時は沙耶の傍にずっといた。よく考えれば会った時からそうだった。
“主人を守るのが隷獣の決まりだからってこともあるんだろうけどさ”
誰に向けるでもない言い訳をする。決まりだから。例えそれが真実でも結果こうして傍に居てくれる事実があるのだから、やはり嬉しく思ってしまう。顔が緩む。体調もだいぶ回復したのだろう。
その時、ルシファーの目が大きく開いた。沙耶は顔を見ていたことに気付かれたのかとびくりとしたが、ルシファーはすぐにいつも通りの表情に戻っていた。
「ルシファー……?」
「沙耶ちゃんっ!」
「うおっ!?」
いきなり扉がバンと開かれたと思うと、英樹の手を引いた花菜が飛び込んできた。




