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「きゃあー!」
誰かの悲鳴で沙耶は目を覚ました。
長く意識を手放していた気もしたが、実際は束の間だったのだろう。だが、その束の間に沙耶の置かれている状況は何もかもが変わっていた。
「な、なに……」
声が震える。体に力が入らない。目の前の光景は、それこそ夢じゃないかと思われるようなものだった。だが、全身を覆う鈍い痛みが、これは現実だと容赦なく突きつけてくる。
沙耶の目の前に広がるのは折れた電車の先端と、落日の光を遮るように立ち昇る黒煙。そしてどこまでも広がる草原に、遠くには延々と連なる山脈が伸びている。
そう、遠くに山が見えるのだ。ここは先程までマンションも立ち並ぶ住宅地を走る電車の中だったのに。マンションはおろか家の一軒すら何一つ見当たらない。細く背の低い草が大地を覆うのみで、他には木がぽつりぽつりと立っている。それだけだ。
その本来なら穏やかな心持ちになるであろう景色は、あまりに今ここに似つかわしくない。その異様さ故に、風そよぐ草原がただただ不気味に沙耶の目に写った。
また悲鳴が聞こえた。
はっと意識を戻すと、あちこちから泣き声や怒声が聞こえる。それが更に恐怖をかき立てる。心臓が早鐘を打っている。何か、何かをしなければと思うのに思考がまとまらない。それでもと必死に辺りを見渡す。
今どうなっているかを少しでも把握しなければ。
目の前には崖下に墜落して折れた電車が屹立している。先頭車両だったそれは崖から落下して地面にめり込み、反対側の端は握り潰されたかのようにぐしゃぐしゃに潰れている。先頭車両はここから落ちてしまったようだ。
そもそもここは本来ならただの平地だったのだが、今では高さがゆうに20メートルはあろうかという崖に変わっている。
あちらに乗っていた人たちはどうなってしまったのだろう。
もし自分が乗っていたら――ゾッとした。
沙耶が乗っていた車両は横転し、車両の間の扉がどこかに吹き飛んでいた。その扉があった空洞から外に出ようと這い出ようとして、沙耶は慌ててその手を引っ込めた。
地面がない。この車両も半分ほど崖から突き出ているのだ。今はまだもう半分の車両がかろうじて大地にしがみついているようだが、いつ落ちてもおかしくない。
「は、反対側に行かなきゃ……」
慎重に後ずさる。呼吸が荒くなる。目の前の折れた車両が自分の未来をまざまざと見せつけてくるようだ。少しでも揺れればきっとこちらも落ちてしまう。
「ひっ!」
先程まで自分がいた箇所ががらりと崩れ落ちた。車両がメキメキと音を立てている。
「待って、いや。お願い、待って……!」
懇願するように声を上げる。だがその声に何かを引き留める力はない。足は震えて立つことができない。もんどりうつように慌てて崩壊の反対側へ這う。散乱する瓦礫が手にいくらあたろうと、飛び散ったガラス片で足を切ろうとも無我夢中で沙耶は這った。
だが間に合わなかった。
足が空を蹴った、と思った刹那、がくんと体が落ちた。必死に残った手すりを掴んだが、その手すりすらも今にも折れてしまいそうだ。
「いや、誰か、誰か助けて……」
助けを呼びたいのに、声が出ない。震える口は空気だけを吐き出して叫びは声にならない。
ああ、そもそもこんな状況で誰が助けてくれるというのか。
手すりを掴んでいる腕がびきびきと痛む。手だって限界だ。先程這ったときに瓦礫が刺さったのだろう、血が手から垂れて顔にあたった。
迫る濃くて、濃くて、濃い死の気配。死が後ろに悠然と立ってこちらを見下ろしている。心が「嫌だ、嫌だ」と悲鳴を上げて泣きわめいている。
“何で、何でこんなことに……”
朦朧とする頭で出てくるのはそんな思いばかりだ。涙で視界が滲んで、もう震える手しか見えない。その震える手に、指に何かを見つけた。
「指輪……?」
左手の人差し指に見覚えのない細い指輪が嵌っていた。銀色のリングに小さな石が嵌っただけのごくごく単純な意匠だ。「指輪なんて人生で一度もしたことなかったな」とどこか遠くで思った自分がいた。
その時、何の前触れもなく手すりが折れた。死の文字だけが頭を占めた。
あっと思う間もなく、沙耶の体は落ちていく。そんな時でも何故か沙耶はその指輪から目が離せなかった。
思えばそれは予感だったのかも知れない。
落ちる、と思ったその刹那、指輪についた石が光を放った。
光の中から人影が浮かび上がる。黒髪に黒衣。そして赤く光る瞳。沙耶にはそれが一瞬死神に見えた。
“本当に死ぬ時って死神が迎えに来るんだ”
ほんの少しのおかしみを感じて、僅かに心が軽くなった。そのまま沙耶は諦めを受け入れたように目を瞑り、死に揺蕩うた。
だがその死神は、死神ではなかった。
不機嫌な声を上げ、あまつさえ舌打ちまで繰り出した。
「ああっ!? 何でこの俺が? ちっ、くそ、ふざけんなよ!」
今日この日の出来事は、後に『召喚災害』と呼ばれた。
確認されただけでも約3万人の人間が突如として建造物ごと消え去ったこの不可思議な事件は、従来の科学では消えた人々も原因すらも全く解明することはなかった。
この広い地球上において、この召喚災害は日本国内でのみ発生した。
だがこの世界的に見れば局所的な出来事は、人類史に大きな転換点として名を残すことになる。
だがそれを当の被災者たち、沙耶たちが知るべくもない。