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ルシファーは渋面で沙耶の圧を片手で防ぐが、ついには観念したようだ。押し付けられたそれをじっと見つめ、鼻をひくつかせて匂いを嗅ぐ。
“犬みたいだ”
その様子を眺めていた沙耶がそんなことを考えていると、ルシファーが口を開いて沙耶の指からそのままメロンパンを食べた。
“餌付け……! いや、どっちかっていうとサファリパークでバスからする給餌っぽいな”
動物を象ったバスの窓に嵌められた格子の隙間から、トングで挟んだ肉を出して外にいる猛獣に与える。小さい頃に親に連れられて行った時の朧気な記憶を思い出し、妙な既視感に沙耶が思案を巡らせている最中、不承不承メロンパンを口に入れたルシファーは検分でもするかのように口の中で転がし、噛み締めていた。
そしてそれは突然に訪れる。
ルシファーは天啓を得たのだ。
やる気なさげに脱力し椅子にもたれていた身体は電気が流されたようにびくりと硬直し、不機嫌そうに細めていた目がみるみると開かれた。突如様子の変わったルシファーに、沙耶だけでなく中丸夫妻も驚いていたが、何よりも一番驚いていたのは誰でもないルシファー本人だった。
見開いた目を何度も瞬き、漸くごくりと飲み込む。口の中は空になった筈なのだが、己の身に起きたことに理解が追いついていないのか、メロンパンを摘んでいた沙耶の指先を凝視したまま動かない。
今まで見たことのないルシファーの反応に、困惑の只中にある沙耶は何を思ったのかもう一度メロンパンをちぎって半開きになっているルシファーの口の中に押し込んだ。ルシファーはそれに抵抗することなく口に含み、再び確かめるようにゆっくりと咀嚼する。
穏やかなパン屋の一角に、奇妙な緊張感が漂う。
ルシファーが嚥下し喉がごくりと動いた。
「これが……食べ物、だと?」
「う、うん。そうだよ。……あ、苦手だった?」
「苦手……いや、そうじゃない。不快感は、ない。だが……この感覚は何だ」
沙耶から見てルシファーは真剣に戸惑っているようだ。今まで毒見のように色々と食べてもらったことはあるが、このような反応を示したところは見たことがない。もしかすると沙耶が気付かなかっただけで、このメロンパンには何かしら問題でもあったのだろうか。
沙耶は息を呑んだ。
「それ。もう食べないのか」
沙耶が持つ半月状になったメロンパンを指差すルシファー。はっとして沙耶は自分の手元を見た。
「んえ? ああ、これ。いやこれはまだ食べかけ……食べる?」
半ば冗談だったのだが、ルシファーは無言でそれを受け取り、そして大口を開けて齧りついた。沙耶は再び驚きに目を丸くする。中丸夫妻は「ただパンを食べるだけ」とは思えない、目の前の男女間に漂う不思議な空気に言葉を挟めず固唾を呑んで見守っている。
ルシファーは最初ゆっくりと確かめるように、次第にその早さを増して一気に半分になったメロンパンを食べきってしまった。
「何だ……この感覚は。上手く言葉に出来ない。だが……悪くは、ない」
本気で戸惑っているルシファーの反応に、沙耶がぱあっと顔を明るくした。
「それ、きっと「美味しい」って感覚だよ! ルウ、メロンパン美味しいって思えたんだね!」
「美味しい……? これが、美味いってことなのか。そうか……、なるほど。何故お前等が取り憑かれたように美味いものに執着するのかさっぱりわからなかったが……今なら理解出来る気がする」
自分の手を真剣な顔をして見つめるルシファーに、沙耶が感情を堪えきれなくなったようにそわそわと立ち上がった。
「うわ、うわあ! 初めてだね、嬉しいね! ああーなんか感動しちゃう!」
声を荒げることなく表情もさほど変わらないルシファーに対して沙耶のほうがはしゃいでいるように中丸夫妻からは見えていた。それはまるで赤子が初めてひとり立ち出来たのを歓喜する親のようだ。
そんな沙耶とルシファーの言葉にも様子にも違和感を覚えていた夫妻だったが、喜んではもらえているのだろうと深く聞くことはしなかった。
「何だろう、今までの食べ物と何が違うんだろう。ルウも私と一緒でパンが好きってことかな? なら他のも食べてみようよ。あ、パン見てきてもいいですか? ちゃんとお金払いますので!」
「ふふ。ああ、見ておいで」
「やったあ! ほらルウ、行こ行こ!」
声を弾ませて沙耶がルシファーの腕をぐいぐいと引っ張って立たせる。そしてそのまま手を引いてパン棚へと先導していく。
小さな背中が楽しそうに前を歩く。思わずルシファーが顔をほころばせた。
「ははっ。何でお前が喜んでるんだよ」
「ええー? あは、何でだろう。でも嬉しいんだもん」
パンへと視線を向けたまま、沙耶が背中越しに笑って返す。
ルシファーは何だか無性に沙耶の頭をくしゃくしゃに撫でたくなった。それが何故なのかわからなかった。
先程からわからないことばかりだ。だが、悪くない気分だった。




