204
涼子は沙耶より少し背が高いくらいの小柄でふくよかな女性だ。年頃にして四十代中程だろうか。ひっつめ髪をしてピンクのシャツに白いエプロンを身に着けているからか、服のほうが妙に可愛らしく見えた。
桂治も年齢は涼子と同じくらいだろうか。中肉中背といった体格で、手はごつごつとして日々の仕事の過酷さを感じさせた。髪は短く刈り揃えられ、被っていたであろう帽子を今は手に持っていた。白いコックコートには所々粉がついていて、つい先程まで作業していたのだろうと思われた。
桂治の丸まった背に沙耶は職人としての意地を感じ、途端に手元にあるパンがとても貴重な芸術作品のような気さえしてきたのだった。
そっと壊れ物を扱うようにパンを持ち上げる。丸い花のような形をしたパンで、見ると中に何かの木の実が入っている。生地がしっかりと詰まっているのか意外とずっしりしていたが、触った感触は柔らかかった。
ここ幻視界へと召喚され幾月。とうとう手にした念願のパンだ。
沙耶はそのパンを一口大にちぎり、どきどきと胸を高鳴らせながら口へと運んだ。
「……っ! んん!」
口に含んだ瞬間目を丸くして鼻から息を吐き出す。じわりと滲む目で天を仰ぎ、溢れ出そうな感情をじっくりと身に染み込ませるように噛み締めていく。そうしてゆっくりと時間をかけて一口を存分に味わうと、すかさず次の一口を、また次の一口をと、言葉を発する暇もなく無我夢中でパンを食べ続けた。
そして中丸夫妻はその様子を嬉しそうに静かに見守っていた。
あっという間にパンを一つ平らげると、沙耶はそこで漸く皆に食べている様子を見つめられていたのだと気が付いた。赤面して頬をかく。
「うわわ、すみません。なんか夢中で食べちゃって……。でもそれくらい、それくらい美味しかったです! 前にウケからパンを交換して食べてみたことあるんですけど、食べた瞬間に絶望して諦めてたので……また美味しいパンが食べられて感動しました」
「ああ、あれね」
「あんなものはパンじゃない。あんなものは小麦粉を水で練って丸めただけの泥団子だ」
涼子が思い出したように苦笑いを浮かべ、桂治は憤然と腕を組んだ。すると桂治は少し考え込むと、黙って席をたった。
「あ、えっと……?」
「あら、あの人ったら。大丈夫よ」
何か気分を害するようなことを言ってしまったのかと不安がる沙耶に、涼子は片目を瞑って笑いかけた。その言葉の通り、直ぐに桂治がひとつ籠を持って戻ってきた。
何かと思い覗き込んだ沙耶は驚愕に思わず息を呑んだ。
「そ、それはまさか……!?」
「ああ。最近スライムだかの魔物から甘味料が生成出来ると知ってな。まだ試作段階だが、良ければ食ってみんか」
「神よ!」
がたりと椅子を倒していきなり立ち上がった沙耶に、黙って様子を眺めていたルシファーがびくりと肩を揺らした。主の異様な興奮具合に頬を引き攣らせながら倒れた椅子を戻した。
「何だ、お前信仰する神がいたのか。まさかあの痴女のことじゃないだろうな」
「神とはこれよ! 見てよ、メロンパンだよ!」
鼻息荒く気を吐く沙耶がルシファーの腕を引っ張り、その籠の中を指し示す。籠の中には淡い黄色の丸いパンが四つ入っていた。表面にメロンのような格子模様がついていて甘い香りが漂っている。少し歪な丸みもどこか愛嬌を感じさせた。
「私パンの中でもメロンパンがいっちばん好きなんです! あ、あの! 食べてもいいですか? お金はちゃんと払います!」
「金なんぞいい。言っただろ、これは試作品だ。感想だけ聞かせてくれるか」
「わ、わかりました。……では」
沙耶がメロンパンへと手を伸ばす。震えそうになる手でそっとパンを一つ手に取ると、両手で掴み直す。そしてじっと見つめたと思うと大口を開けて頬張った。
齧り、咀嚼し、飲み込む。その一連の動作をゆっくりと確かめるようにして行う。桂治は微かに緊張しているような、真剣な眼差しで沙耶を見つめていた。
「そうだった」
沙耶がぽつりと呟いた。桂治が小さく身を乗り出す。
「メロンパンってこういう味だ。そう、この味だ。……やっぱり美味しい」
目を瞑り、パンを持つ手を机の上に置く。
人とは心の底から真に感動した時、大仰な言葉を並び立てるのではなく、しみじみと言葉少なく感じ入るものなのかもしれない。沙耶から発せられた言葉は、思わず溢れ出してしまったといったものであった。
沙耶はにこにこと微笑む丸山夫妻に見守られながら半分程まで無言で食べ進めると、そこで漸くルシファーが珍しく興味深そうにこちらを眺めていることに気が付いた。
「ルウ?」
「……いや、随分と美味そうに食べるものだと思ってな」
ルシファーの言葉に沙耶が目をらんと輝かせた。
「……食べてみる? 食べてみない!? 食べよう!」
嬉々として言い募り、一口大にちぎり取ったメロンパンをルシファーの口元に押し付ける。




