202
禍福は糾える縄の如し。
その時、沙耶たちは幸せの只中にあった。思いがけず遭遇した幸運をじっくりと噛み締めていたのだ。
よもやその数時間後にはそれが露と消えるとは思いもせずに。
「パ、パン屋―っ!」
悲鳴のような歓喜の叫びが辺り一帯に響き渡った。
それは新しく到着した拠点でのことだった。
新しい拠点につく頃には、翔たちの拠点があった辺りからまた景色も気候もがらりと変化していた。
一度下がったかに思えた気温は再び上昇し、外套を着ていられない程だ。しかし湿度は低いので不快感は少ない。雨が少ない気候なのだろうか、土は乾燥し、黄土色の土埃があちこちで舞っている。その大地の上には色の抜けた背丈の高い草が草原のように一面に広がり、その間を風が自在に吹き抜けて草を波のように揺らしている。その合間合間に背の低い木もぽつぽつと生えているが、その葉は地面に生える草同様、色が抜けて緑というより黄色に近い。
そんな光景が視界いっぱいに広がって、どこまでも続いている。そう、ここには視界を遮る山がないのだ。
その雄大な光景はまるで、唯物界のテレビでいつか見たサバンナのようだった。
この人間の気配など一切感じられない風景の中、突如として現れたのが、聳え立つ城壁に囲まれたこの拠点だった。
この地界では人は拠点の中で生活をし、その外に住環境を置くことがない――正確には置くことが出来ない――ため、拠点だけがどんどん発展し、その周囲は手つかずという状態になる。そのせいか拠点周りはこのように大自然の中、いきなり巨大な人工物が現れるという異様な風景になりやすいのだ。
その大草原の中の拠点にて、先程の沙耶の絶叫へと至る。
見知らぬ来訪者など想定されていなかったのだろう、不審の目で執拗に誰何する拠点入口の門番をどうにか説得、通過し、漸く拠点内を散策できるようになっていた時のことだった。
外から見た拠点はかなり大きく見えたが、その中は雑然と建物が乱立していて外観より手狭な印象だ。その立ち並ぶ建物を眺めながら歩いていると、あるこぢんまりとした店舗の前で沙耶の足が止まった。
普段拠点内を歩く時、沙耶がルシファーの前に立って歩く。主である沙耶にルシファーはついていく形だ。「下僕は主についてこい」ということではなく、単純にルシファーは拠点内の諸々に興味がなく、ただ沙耶が行くからついて行っているというだけのことだ。
つまり拠点内では沙耶の興味のある場所に、沙耶の意思で向かう。
だがこの時は後ろを歩いていたはずのルシファーがいつの間にか沙耶を追い越していた。
「……沙耶? あ、おい、何やってんだ」
沙耶が前を歩いていないことに気付いたルシファーがきょろきょろと周囲を見渡し、自分の後方で釘付けになったように何かを凝視する沙耶を見つけて駆け戻った。自分がこんな人間だらけの拠点で沙耶に付き添うのは万が一の為に備えて護衛するためだ。それなのに沙耶が離れていては意味がない。
それを注意しようとしたところを、腕を勢いよく沙耶に鷲掴みにされた。
ぎょっと驚くルシファーに対し、沙耶は小刻みに震えて視線をある建物から外さない。ルシファーも訝しげにその建物に目を向けた。
なんてことはない、ただの小さな建物だ。ただその小ささが周囲と見比べて特異ではあった。
この拠点の建物は灰色の壁で縦に長いものが多かった。長いといっても階層で考えれば三階程度だが、それが道沿いにいくつも並んでいる。幻視界では珍しいその人工的で無機質な光景は、唯物界で見慣れたビル群を想起させた。
その建物に目が慣れている中で現れたこの小さな平屋の建物は確かに目を引いた。外壁は他の建物同様のっぺりとしているが、その色は優しげで温かみのある生成色をしていた。扉は木製で――本当に木材から出来ているかは不明だが――その中央に黄緑色で塗られた小さな札が掛かっている。大きなガラス窓と煙突を備え、そしてその煙突からは香ばしくて甘やかな香りが漂っていた。見るとその扉に掛かった札には愛嬌のある字で「はなまるや」と書かれていた。
沙耶は瞳孔が開いたような目でそのはなまるやという建物を凝視し、震える声でぼそぼそと呟いた。
「こ、この佇まい、それに煙突……何よりこの甘くて香ばしい小麦の香り……まさか……もしや……」
沙耶は未だに合点のいかないルシファーを掴んだまま駆け出していた。
「パ、パン屋ーっ!」
そして冒頭に至る。




