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「むぐっ」
うめき声のような間の抜けた声をあげ、がくりともたげた頭を持ち上げた。抱えていたリュックによだれがついている。ずっと同じ体勢で座っていたからか、腰が痛む。
次の駅を告げるアナウンスが無機質に流れている。沈みかけの西日が、夜に蚕食され始めた西の空を赤くしているのが電車の窓から見えた。
隣に座っている中年の男性が怪訝そうにこちらを一瞥し、すぐに手に持つ携帯画面へ視線を落とした。通路に立つ女子高生たちは意にも介さず、楽しげに談笑している。
あの制服はどこの高校のものだったか。
先程見た夢はそういえば昨夜遅くまでやっていたゲームの光景だったのだな、とぼんやりする頭で思い出した。夢で見た自分は随分と綺羅綺羅しい服を着ていたというのに、実際の自分はだぼついたパーカーにジーパンにスニーカー。随分な落差だ。
“寝てた……”
学校に併設された図書館でつい本を読み耽ってしまい、予定よりも遅くなってしまった。下校時間とも帰宅ラッシュとも被らない微妙な時間だからか普段より乗客は少ない。
沙耶は目を擦り、小さくかぶりをふる。その時膝の上から一冊の本が滑り落ちた。
“ああ、何も読めてない。課題どうしよう……”
大学で渡されたその分厚い本は、まるで小難しい題名で鎧のように装甲し、読まれることから身を守っているようにすら見えた。沙耶は見事にそれに阻まれ、ろくに読み進められていない。
沙耶は今年の春大学生になった。
年齢だけは確かに上なのに、その姿は通路に立つ女子高生たちよりもどこか幼い。それはつり革を十分に持つことのできないその背丈にあるのか、それとも肩につかない長さのその黒髪がそう見せるのか、大学生に見られることのほうが少ないくらいだった。
沙耶が本を拾い上げようとしたとき、今度はポケットの中の携帯が震えた。取り出した画面には取引先の名前が映し出され、沙耶が電話に出るよう呼び出している。
今は電車内だ。沙耶は渋面でそれをそっとポケットに戻した。
“課題があろうと納期は待ってくれないし……。ああ、お母さんにどやされる”
沙耶の家は自営業だ。小さな町工場を経営している。小さいとはいっても特殊な技術を持っているおかげで、わりと名の知れた大手企業からも注文があり、経営は安泰していた。
だが、自営業の性かな、沙耶は必然的にその手伝いとして社員さながらに働いていた。おかげで大学にも無事通えているわけだが、それでも実家から出ることはできず、大学の必要性を感じられない両親を説得するために、あまり興味のない経済学部にしか進学できなかった。
“ふふ、でもなんの授業を取るかはまでは知られないし……”
小さく口角をあげる沙耶がリュックから出したのは後期から始まった別の授業で使う本の内の一冊だ。英語でタイトルの書かれたそれは国際政治学に関する本だった。沙耶はそれを楽しそうにぱらぱらとめくる。
沙耶の大学は複数の学部が存在し、別の学部の授業を取ることも許可されている。必修単位にこそならないが、受ける分には全く問題ない。沙耶はそれを狙って通学時間1時間以上かかる、この大学を選んだ。そして沙耶が受けているこの授業は留学するのに必要な単位のひとつだった。
将来はどうせ家業の手伝いをさせられるのだろう。きっと留学なんてさせてもらえるはずがない。わかっていても、起こるべくもない奇跡に縋ってしまう。諦めきれないからか、小さな抵抗のつもりか、こうして単位にもならない授業を受けている。
何より経済学よりもこういった授業のほうが好きだったようで、単純に楽しい。読む度に今まで知らなかった世界が見える。自分の世界が広がる気がした。
ついじっくりと本を読んでしまっていることに気付き、慌てて本を閉じた。今は課題のある経済学の本を読まなければいけなかったのに。もう一度あの難解な専門用語で装甲された本と格闘せねば。
観念して重たい表紙に手をかけた、その時だった。
それは瞬間、音もなく起こった。
まるで深海にでも放り込まれたかと思われるような感覚だった。天地をひっくり返したかのように、空気が一変したという実感はあるのに、沙耶の視界は何も変わらない。異変を察知した心臓だけがどくんと強く鳴った。
何かわからない。でも何かが確かに起こった。
そう感じた途端、強い衝撃が電車を揺らした。急に止まった電車は先程までのスピードを全て衝撃に変えて、固まっていた乗客全てを殴り飛ばすかのように揺さぶった。
響き渡る悲鳴。人や荷物が飛んでいく。沙耶ももれなく座席から振り落とされ、電車の端の壁に叩きつけられた。
うめき声が漏れて、そこで沙耶の意識は途切れた。