187
「お馬鹿!」
息をするだけで切り裂かれそうな程に張り詰めた緊張感は、沙耶の嗜めるような怒気のない一喝であっさりと霧散した。
沙耶がそのまま腕を強く引っ張るせいで、ルシファーは思わずよろめく。
「おい、沙耶」
「何?」
面目を潰された格好となったルシファーは、語気こそ荒げはしないが凄むような声で呼び掛ける。
だが沙耶にその威圧は意味がない。暖簾に腕押し、何処吹く風である。
「ばれちゃったならもう恐い顔してもしょうがないでしょ。それに今は私たち宿をお借りしてる立場なんだから、機嫌損ねて追い出されちゃったらどうするの? また野宿だよ!」
沙耶の言葉は一見純太たちに配慮しているように聞こえるがその実、完全に己の都合である。
ルシファーも他人都合ではなく、沙耶都合の為となれば黙るのも吝かではない。
純太もその違和感に気付きつつも、折角冷水を浴びて鎮火しかけた火に油を注ぐことはない、と口を噤んだ。
後から部屋に入ってきた少年はというとそこで漸く、異様な気配を放つ黒衣の男の隣に並び立つ、小柄な少女の存在に気付いたのだ。
あの震え上がるような冷たい目も、押し潰されそうな程の重圧も、この少女の前では見る影も無い。そして男は淡々と説く少女の言葉を素直に受け止めている。
この少女は一体何者なのか、と少年が探るような目つきを向けようとするも、それは直ぐに出来なくなった。振り返った沙耶と目があったのだ。
「ばれちゃったならこれ以上隠しておくのもめんど……良くないし。……あの、連れが失礼しました。それとそんなつもりはなかったのだけど、騙すような形になってしまってごめんなさい」
固まる少年たちを前に、沙耶がルシファーを連れて向き直る。
「改めて自己紹介します。私は沙耶。そしてこっちのがルシファー。私の隷獣です」
なんてことのないように語られたその言葉に、純太は咄嗟に反応出来なかった。
言葉はわかるのにその意味が理解出来ないのだ。
それとは対照的にもう一人の少年の反応は顕著だった。沙耶の言葉を聞いた途端に驚きの声を漏らし、その真偽を確かめるように沙耶とルシファーとを見渡す。部屋に入ってきた時の様子を鑑みるに、ルシファーが人間ではないことは気付いていたのかもしれないが隷獣であるとは思っていなかったのかもしれない。
「え、いやだってにーちゃん、指輪してんじゃん。隷獣が隷属契約の指輪なんて」
「あ、それ、偽物なの」
「え!? ええ……」
純太が困惑を露わにルシファーをまじまじと眺める。
一方少年は「まじか」などとぶつぶつとひとりごちると、未だ現況を呑み込めていない純太を他所に、吹っ切れたように顔を上げた。
「っし、先ずはお互い腰据えて話しましょ! 俺たちのこともちゃんと話すんで、お二人も色々話してほしいっす。じゃないと泊めてあげられないんすよ。俺、これでもここ預からせてもらってる立場なんで!」
少年がそう明るく言って片目を瞑った。
沙耶はルシファーと顔を見合わせる。
こうして沙耶たちはこの奇妙な拠点のリーダーを務める少年、及川翔と出会ったのだった。
話し合いは沙耶とルシファー、拠点側は翔と純太の二人だけで行われた。
扉の外で興味津々に待っている人たちは翔によって解散させられ、近付かないよう言い渡されていた。
沙耶たちが特殊な事情を抱えているのだと察して配慮してくれたようだ。またここで話したことはこの場にいる者以外には口外しないと約束もしてくれた。
四人は部屋の中に置かれた、これまた可愛らしい作りの机と椅子に座って話を始めた。
翔たちの話によると、ここには今数百人程の人たちが住んでいるそうだが、その人たちは皆若者ばかりなのだそうだ。以前は年配の者もいたそうだが、この拠点の方針に合わず、皆去っていったらしい。
「方針って?」
沙耶が尋ねると翔と純太は互いに顔を見合わせて、にやりと笑った。
「そりゃもう、見ての通り! この拠点っすよ!」
「どんだけカオスな拠点を作れるかってのが俺たちの目標なんだぜ」
そう言って二人共口々に今まで自分たちが追加してきた建物について語り始めた。
ウケに建造物を依頼する際はその外観や見取り図等を差し出すことでその通りに制作されるらしい。そしてこの拠点には一級建築士の者がいたらしく、その者によって製図が出来た為、様々な建築様式の建物を作ることが出来たのだという。
最初はちょっとした実験のつもりだったようだが、ウケに頼むとどんな無茶な構図でも建物が追加出来ることに気付くと、そこからはもう現在の状態まで一直線だった。
どこまで出来るか、どれだけ面白い状態に出来るかと皆我を競って次々と建物を増築していき、今に至るのだそうだ。
「とはいえ段々建物の中まで考えてらんなくなっちゃって、あんな感じなんすけどね」
「ま、あれはあれで面白いからいいんじゃね」
「たまに拠点内で迷子が出るのは流石に駄目っしょ」
楽しげに話す翔たちに、沙耶は「やっぱり迷子になるのか」と内心戦慄した。




