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どれ程の時間そうしていたであろうか、流石に疲れ始めた沙耶が泉の縁へと移動した。濡れそぼった服は重く、髪は顔に貼り付く。沙耶は頬についた髪を耳に掛けながら、足を泉につけたまま腰掛けた。
ユキはまだ楽しそうに泉の中を泳ぎ回っている。それを目を細めて嬉しそうに眺める。
「もうへばったか」
沙耶の横にルシファーもどかりと腰掛けた。ルシファーも全身びしょ濡れだ。
「もう、じゃない。いい加減へばった、だよ。あんだけ全力で遊んだんだから。……あー、でもたっのしかった! ふふ、あれ完全にプールだったもんね」
「ほう、俺をただのプールの器具扱いか」
「アトラクション付きの豪華なプール!」
「結局プールなんじゃねえか」
「ふふ、いいじゃない。ああ、私プールなんて行ったの、もう何年前かなぁ」
照りつける日の光が濡れた全身を乾かしていくのがわかった。水滴のついたフライパンを火にかけたように肌の上の水がじわじわと蒸発していく。濡れきった髪の毛はまだ当分乾かないだろう。沙耶はそんな感覚に浸りながらぱしゃりぱしゃり、と両足を交互に振って水を蹴った。そこから波紋が広がってく。
ルシファーはその波紋を黙って見つめていた。
そして沙耶の足がふと止まった。
「……思いっきり遊んじゃったねえ」
眉を下げ、小さく笑みを浮かべる沙耶。その顔は先程までの曇りのない笑顔とは異なり、どこか痛みを堪えるような、罪悪感が滲み出たような表情だった。
ルシファーが大きく舌打ちをした。
沙耶が驚いて目を丸くする。
「ルウ?」
「……楽しかったんだろ。ならそれでいいじゃねえか。何の問題がある」
「え?」
「昨日もそうだ。いや、あの拠点を出てからだ。お前はずっと何か考え込んでやがる。何も考えるな、とは言わんが、赤の他人の言葉如きでお前が拘わされてんのは不愉快だ」
沙耶が目を瞬かせ、作ったような表情で固まる。思わずルシファーからの視線を自分の正面から逸らしていた。
だがルシファーは沙耶を真っ直ぐ見つめ、続ける。
「当ててやる。お前、あそこであのなよっちい男に言われたことを未だに気にしてやがるな。不謹慎だとか何だとか。遊んでいる最中にも、楽しいと感じたその後にでも、あの男の言葉がお前の心を刺すんだろう」
どきりとした。
その通りだったのだ。
見たことのないものを見るのは楽しい。嬉しい。だからかその時はその感情で一杯になるが、その熱が少しでも下がると、心の奥で神宮寺が侮蔑の目を向けてくるのだ。沙耶にはその視線がまるでナイフのように痛かった。
「そう……そうだよ。こんなことしてる私は、やっぱり――」
「おら!」
言いかけた沙耶を、ルシファーが泉の中に突き飛ばした。大きく水を跳ね上げて頭から水に突っ込んだ沙耶は水の中でしゃがみ込んで噎せ返る。気管に水が入ったようだ。げほげほと咳き込むのが苦しくて涙目になった。
そんな沙耶に悪びれることなく、ルシファーが泉の中にずかずかと立ち入ってきた。
「あいつの言うように辛気臭い通夜みたいな顔して、使命感とやらの奴隷になればお前は安心なのか。あの男は「漸くわかったか」と満足だろうが、お前はそれでどうなんだ」
「それは……」
そんな自分を想像する。
日々真剣に遊ぶことなく、笑うことなく、ただ人々を救うことだけを考えて正義を胸に目的に邁進する、そんな姿。
この世界では苦しんでいる人が大勢いる。そんな中で行動するのならばそれが正しい在り方だとは思える。誰にも文句を言われず、ともすれば「立派だ」と褒められるかもしれない。寧ろそれを望む者だって多いだろう。
だがそんな自分になりたいのかと言われると、想像するその姿の自分はなんだか窮屈で苦しそうだ。
何よりちっとも楽しそうじゃない。
沙耶はぐっと込み上げる感情を堪えるように下唇を噛んでルシファーを見上げる。
「言っとくが俺はそんな主、お断りだ。これはお前の旅路だろ。お前の命を掛けて進む道行きに、他人が口出し出来ることなんかねえ」
唾を飲み込んだ。喉が大きく動いた。
「……ルウはそう、思ってくれるんだね。でも……でもいいのかな、そんなこと」
「いいんだ! この俺がそんなお前を肯定してやる!」
ルシファーが沙耶の腕を掴んで引っ張り上げた。水を散らせながらふらつき、立ち上がる沙耶。ルシファーが顔を近づける。
「お前はこの俺の言葉以上に、赤の他人の言葉を優先させる気か!?」
なんとも傲慢な物言いだった。
だがその傲慢さが嬉しかった。
「ははっ、何それ、ルウってば何様なのさ」
「はっ! 俺はルシファー様だ」
「ふはっ! ああ、そうだね。うん……そうだったね」
俯き、ルシファーの胸板に頭を押し当てる沙耶。ルシファーが満足そうに沙耶へと腕を回した。
「……わかればいい」
静かにルシファーが呟いた。
その様子を遠目で見ていたユキが尾を振った。顔を手でかき、舌で口の周りを舐める。そして大きく身体を伸ばすと、再び泳ぎに戻った。
沙耶とルシファーは暫くの間、そのまま泉の端に佇んでいた。




