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水音がする。
さやさやと葉擦れの音も聞こえた。近くに池や木があるのだろうと思われたが、沙耶の目ではぼんやりとした輪郭でしか捉えられない。
ルシファーに手を引かれ入った建物は家、というより小屋に近いものだった。
荒野に建っていた学校もだが、こちらも放棄されて久しいようだ。むしろ厳しい日差しと風砂でこちらのほうが酷い状態だ。その上その小屋はかなり小さかった。完全に閉まらない壊れた扉を開けると、一部屋にも満たない空間があるだけだ。
物置として使われていたものだったのかもしれない。
無理矢理ユキを押し込むようにして入れると、もうそれで一杯だ。ならばユキを指輪に戻せばいいのだが、辺りは本格的に気温が急低下しており、ユキの毛皮なしでは今にも凍えそうになっていた為、窮屈な思いをさせるユキには申し訳なくも、出ていてもらうしかなかった。
ユキがみっちりと詰まった小屋の中に、滑り込むようにして沙耶とルシファーも入る。最初は狭苦しい小屋の中に入るのを嫌がったルシファーだったが、沙耶が凍えているのを見ると中へ入ってきた。
「うー。ユキ、あったかい」
「温かいって、歯の根が合ってねえぞ。ほら、来い」
ユキに埋もれるようにしてもたれかかっていた沙耶の横にルシファーが腰掛け、身体を寄せた。
「ん、何、どう……ってんん? え、ルシファーあったかい……?」
「ユキは冷気は得意だが、その反面こっちは不得手だろ」
得意げなルシファーの言葉に、気落ちしたようにユキが鳴いた。
だがそれは本当のようだ。
毛皮としては温かいが、身体自体はひんやりしている。それに対して、沙耶の肩を抱くルシファーの全身からはじんわりと熱が発せられていた。
「俺にかかれば冷気も熱気も思いのままだ。感謝し――」
「湯たんぽだー!」
沙耶がルシファーの言葉を無視して、回された腕に抱きついた。驚いたように一瞬目を丸くするルシファーだったが、己が生活用品扱いされたことに気がついて不服そうな表情を浮かべた。
「おい、この俺を湯たんぽって、お前な」
「うんうん、高級な湯たんぽだねえ」
「値段の問題じゃねえ」
呆れるルシファー。沙耶はくすくすと笑って猫がじゃれつくように、ルシファーの手に額を押し当てた。
「あっつい荒野でひいひい言うのも、砂漠で遊んでその絶景に感動するのも、でっかい狼と一緒に小屋でぎゅうぎゅうに寝ることになるのも、元いた世界じゃ考えられなかった。自分がこんなことになるだなんて、あの頃の私は想像したこともなかったよ」
「ま、だろうな」
「そうなの。すっごい楽しかったの」
猫が喉を鳴らすような上機嫌な声だ。ルシファーは肩をすくめつつも、満更でもなさそうに沙耶の髪を指先で弄んだ。
「あれだけはしゃぎ回れば、そうだろうな」
「そんな言い方してー。ルウだって楽しんでたの、わかってんだからなー」
小さく笑いを零す沙耶。
だが、その声が止んだ。
がたがたと小屋の壁が震えている音がいやに響いた。
「あーあ。こんなに楽しくって……怒られちゃうかな」
誰に、とは沙耶は言わなかった。
ルシファーから沙耶の顔は、自分の手に隠れて見えない。だが沙耶がどんな顔をしているのか、ルシファーにはわかった気がした。
“ああ、くそ。あんなとこ、寄らなきゃよかった”
ルシファーは心の中で舌打ちをした。
そして二人はそのまま黙り込んでしまった。
どうやら沙耶は少し前からかなり眠かったようで、気付くと眠りに落ちていた。もしかすると眠気を前に、意図しないことまで喋ってしまっていたのかもしれない。だがそんなことはルシファーにはわかりようもない。早々に寝息を立て始めた沙耶とユキとは反対に、ルシファーは暫くの間ただ風の音を聞いていた。
翌日、太陽が出て数刻もしない内に、気温が急上昇した。砂漠の朝夜の気温差は激しいというが、ここも例外ではないようだ。その日の朝は暑さに耐えかねて小屋から飛び出した沙耶の叫びから始まった。
「あっつい!」
それもそのはずで、沙耶はふかふかの毛皮と温かいルシファーに囲まれて寝ていたのだ。凍える夜ならば心地いいが、熱気の立ち込める日中では暑苦しい事この上ない。
飛び出した沙耶に続いてユキとルシファーも外に出てくる。
「あっつ……。っておい、何やってんだ」
頭を掻きながら周囲を見渡すルシファーが、怪訝な声を出した。目で探していた沙耶は小屋から離れた場所に蹲っていた。ルシファーの声に気付いて立ち上がる。
「み、見て! これ、オアシスってやつじゃない!?」
沙耶が両手を広げた。
その沙耶の背後には大きな泉が広がっていた。その周囲には低い下生えの草が生え、間を空けて何本かヤシのような木々が伸びていた。あまり深さのないであろう泉は、日の光を受けてその水面をきらきらと反射させている。湧き水なのだろうか、水は澄み、泉のそこまでよく見えた。
「う、うわあ。うわあ」
沙耶が泉を前に右往左往している。まるでおやつを前にした子供のように。その様子から昨晩寝入る前に沙耶から発せられていた空気は微塵も感じられない。
ルシファーは少し考えた後にやりと笑い、大股で沙耶へと近付いた。
「よし、いいことをしてやろう」
「ルウ? 何を……って、きゃー!」
沙耶に声を掛けるや否や、沙耶の両腕を掴んでぶんっと大きく振り回し、そしてそのまま泉へと放り投げられた。いきなり振り回された沙耶は悲鳴を上げて泉へと落ちる。大きな水柱がたった。跳ね上がった水が、なんとか立ち上がった沙耶の全身を雨のように頭から濡らしていく。
冷たく、気持ちの良い水だった。
「ちょ、ルウ。何を――」
「遊ぶぞ!」
「え、ええ!?」
目を瞬かせる沙耶を他所に、濡れることも厭わずにルシファーもずんずんと泉に入ってきた。それを見ていたユキも嬉しそうに続く。
そうして二人と一匹は昨日の砂漠と同じように、今度は泉の中、全力で遊び始めたのだった。
操るのならば砂よりも水のほうがルシファーは得意なようだ。ルシファーによって水は自由自在にその形を変えた。ウォータースライダーのように長い滑り台にも、全身よりも高い大波にも、ぐるぐると流れる渦潮のようにもなった。その多種多様に変化した水の中を、沙耶たちは目一杯に楽しんだ。
その頃には頭の先から下着まで全てがぐっしょりと濡れきっていたが、誰も気にする者はいなかった。同時に昨日流した汗も纏わりついた砂も全てが流れて心地よくもあった。
そうして暫くの間、沙耶たちは砂漠の中にぽつりと浮かぶオアシスを満喫したのだった。




