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「えー、だって私、砂漠って一度行ってみたかったんだもん。でもあっちじゃ日本にはないし、かといって外国になんて行けないし。ねえねえ、あるかな、砂漠」
「さあな。にしてもあんな不毛の地を喜ぶ奴がいるとは。物好きめ」
「ふふん」
ルシファーの言葉に満足そうに口角を上げ、ぱたりとユキの背中に身体を倒す沙耶。
暑さでぐったりとしていたユキだったが、上機嫌な主の様子に気を持ち直したようだ。尾を振って「ワン」と鳴いた。
「ユキ? どったの?」
何か言いたげなユキの様子に、沙耶が首を傾げる。ユキは再び鳴いた。
「うーん? 何かやりたいことがあんのかな? いいよ、よくわかんないけどやってごらん」
「よくわからんことを許可するなよ」
「ユキがするんだから大丈夫。きっと……って、わ!」
「あ?」
驚いて声を出した沙耶に、咄嗟にルシファーが身構える。だが、声を上げた当の本人は至福そうな顔で呑気にユキに抱きついていた。
「何を……やってんだ」
「はああ、これは凄い。クーラーの冷気を直浴びしてるみたい」
「冷気……? ああ、白狼の力か」
「うん? どゆこと?」
沙耶がユキの背に顔を埋めたまま尋ね返す。毛に埋まって殆ど見えないが、随分と緩んだ顔をしている。
「言わなかったか? 白狼は寒冷地に生息する種族だ。だからか雪やら冷気やら、そっち系の力を使えんだよ。雪原の王者と呼ばれる由縁だな」
「ふーん、よくわかんないけどユキってば凄いねぇ。はー……真夏日に厚着して冷房ガンガンにかけてるような、背徳的な気持ちよさ。ああ、もうすっごい贅沢な気分」
「お前な……」
沙耶は蕩けそうな顔でユキの身体を撫でる。全身から冷気を発するユキも漸く熱さから解放されて人心地ついたのか、随分と精悍な顔立ちに戻っていた。
「贅沢と言うが、その冷気の原資はお前の魔素だぞ。だからそいつもわざわざ許可取るまで出さなかったんだろ。俺とユキを飛ばして、その上冷気まで出させて大丈夫なのか」
「えーこんな気持ちいいなら全然いいよー。それにやばくなる前に流石に言うし。そこはほら、私の練習の成果ってやつさぁ」
間延びした声で答える沙耶は、隣を飛ぶルシファーへと目を向けた。
先程まで苛立ちで険しい顔をしていたが、今はそうでもなさそうだ。それよりもその棘のある気配が鳴りを潜めたからか、別のことが気になる。
「にしても……暑っ苦しい格好だよねえ」
「……あ?」
沙耶が服の襟口をぱたぱたと広げながらルシファーを横目に見る。
ルシファーの服は上下全身真っ黒で長袖長ズボンの見るからに暑苦しい服だ。真冬の寒空の下では薄着にも見えたが、この炎天下の中では、見れば見るほど暑苦しい。
沙耶はいたずらっぽくにやりと笑みを浮かべた。
「ふふん。暑かろう暑かろう。ねえ、どうするー?」
そう言って沙耶は自分の背後、ユキの背中をぺしぺしと叩いた。ぐっと押し黙るルシファー。
沙耶はつまり「ユキの力に頼って乗せてもらえばいい」と言っているのだ。ユキにもそれは伝わっているのだろう、いつもならばルシファーを乗せるのに嫌そうな顔をするが、この時ばかりは得意気に尾を振っている。
ルシファーは苦悶した。
だがこの暑さを前に、それは長くは続かなかった。
「……言っとくが、俺だってやろうと思えば出来るんだからな。氷雪を操る白狼種のほうが体質的に効率がいいってだけで、本来俺は体温だろうとなんだろうと俺の中の式で調節できるんだからな。いいか、これは魔素の節約だ」
そう長々と前置きするだけして、早々に沙耶の後ろへと座った。
「はいはい」
苦笑する沙耶。ルシファーにとっても、やはりユキの背中は涼しいらしい。座った途端明らかに脱力した表情になった。見ればこっそりと服の襟元も緩めている。何のかんの言ってやはり暑かったのだろう。
そうして二人と一匹は快適に景色を眺めながら更に西へと向かったのだった。
沙耶の興奮はそれから数刻もしない内に最高潮に達した。
「これは……これは!」
沙耶がユキの上で両腕を空へ向かって突き上げた。
「砂漠ー!」
ルシファーは観念したように苦笑した。
二人と一匹の前に広がるのは見渡す限りの一面の砂漠だった。なだらかな丘陵を描き、さざ波のような風紋が形成されている。その光景はまるで砂で出来た大海原のようだ。砂以外何も無い。木も草も岩さえもない、不毛の地だ。
しかし沙耶はその光景を見て歓喜の声を上げていた。
「降りていいかな? 降りていいよね? というかもう降りよう!」
興奮する沙耶は今にもユキから飛び降りそうな勢いだ。
「わかったから、落ち着け」
沙耶を宥めて、ルシファーとユキは高度を落とした。
「うお……ユキ、足の裏にも冷気、というかもう氷かなんか出しとけ。肉球火傷するぞ」
一歩先に黄砂に足をつけたルシファーがユキに注意を促す。日に照らされて砂の表面温度がかなり高くなっているのだろう。靴のある沙耶とルシファーはいいが、ユキにはない。氷雪を操る力を持たない獣ではこの地に立つこともままならないだろう。




