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慌ただしく行き交う人々の話し声に、響く点呼や訓示の声。その喧騒からここ一帯だけが隔絶している。まるで水の中から地上の音を聞いているかのようだった。
暫くして亜沙子が「もう大丈夫」と岩瀬の肩を叩いた。岩瀬はまだ心配そうな顔で亜沙子から離れる。目は腫れ、鼻の先が赤く染まっていたが、亜沙子の顔はどこか晴れ晴れとしていた。
「大丈夫……そうだね。でもここは離れよっか。総括区には軍部もあるし、隷獣だってそこらをうろうろしてるし」
「隷獣を使わないで、子供でも出来る仕事何かあっただろ。そこにだな――」
「あの!」
相談を始めた岩瀬と浩一を、亜沙子が遮った。二人に見つめ返されて一瞬固まってしまうが、亜沙子はもう怖気づかなかった。
「私ならもう大丈夫です。ここなら……この拠点なら私でも役に立てることがあるかもしれない。魔物とだって……戦えるようになるかもしれない。私、優香には隷属契約なんてさせたくないんです。だから……頑張ってみます!」
そう意気込む亜沙子に浩一が「よく言った!」と快哉を叫び、岩瀬は目を潤ませて頷いている。
沙耶も思わず口元を緩めたのだが、ふと亜沙子の背に隠れる優香の表情が目に留まった。申し訳無さそうな、それでいて何か言いたげな顔で、何度も亜沙子と自分の爪先へと視線を動かしている。
だが歩き始めた亜沙子たちを追うようにして動き出したので、沙耶の注意は途切れてしまった。
どうやらこのまま統括区内の案内を岩瀬がしてくれるようだ。亜沙子は岩瀬と浩一と楽しげに話し、その後ろに優香が続く。沙耶とルシファーは四人から少し離れて続く。
「調子はどう? 昨晩よりは良さそうだけど」
「まあ、ある程度慣れた。……それよりさっきからちょいちょい感じる、この癪に障る気配。こっちのが気が散る」
「気配?」
「ああ。この感じだと恐らく残滓だ。大元は今はいねぇな。だが残滓でこれだけの気配だ。ここは……何かいやがる」
眉を潜めるルシファーに、沙耶も気配を探ろうと注意を払う。しかしもとより気配に疎い沙耶だ。残滓程度のものに気付けるはずもない。早々に諦めた。
“わかんないものに気を使ってもしょうがない。……それにルウが今までで「嫌な気配」って言ってるのって強力な魔物とかでなくてミカとか姉様の存在を感じた時になんだよね。てなると嫌な気配だからって危険であるとは限らないわけで。……というか”
「それってここに天族がいるってことなんじゃないの? ミカみたいなさ」
何の気なしに沙耶がそう言うと、ルシファーの寄った眉根の皺が深くなった。
「……それだ」
苦々しげに呟くルシファーを、「何がそんなに嫌なのか」と沙耶が苦笑する。
“それにしてもまさかミカ以外にも天族がいたなんて。他の天族を探してたみたいだし、また会った時にはミカに教えてあげないと。あ、ならここの天族にもミカのこと教えてあげたほうがいいのかな”
そう考えるも、直ぐにそれをどうやって伝えるのかという問題に直面した。ルシファーが魔族であることは隠しておくよう竜巳に言われている。だがルシファーが人間だと仮定して話を切り出すと、天族の存在に気付けた理由が答えられない。かといってこちらで確認しようにも、今はこの拠点に件の天族本人はいないようなのだから、どだい不可能な話だった。
そうこう思案している間にも、統括区の案内は進んでいく。岩瀬は丁寧に案内をしてくれているようで、魔物の侵攻予測を立てたり入居者数を計算したりする管理部から、拠点全体の備蓄を担う備品室に至るまで細かく紹介していった。様々な部署に分かれて働く様はまるで大きな会社のようであった。
「あ、神宮寺君。今日はお休みなの?」
廊下を歩いていると、反対側から歩いてきた人物に岩瀬が声を掛けた。神宮寺と呼ばれた背の高い若い男は正装の軍服の如き服を着ていた。年頃にして岩瀬と同じ位だろうか、詰め襟に肩章、そしてそこから垂れる太い編込み紐の飾りまでついた純白の服は、着ている薫の端正な顔立ちと柔和な笑顔も相まって、まるで童話の中の王子様のように見えた。
「ええ、聖女様たちが共は不要と仰ったので、今日は待機です。……おや、そちらの方たちは?」
ひょいと覗き込むように視線を向けられて、亜沙子が顔を赤くする。どぎまぎとして言葉に詰まってしまっているようだ。
「うわ、親衛隊いんのかよ」
苦虫を噛み潰したような顔で浩一が呟くと、岩瀬が間延びした声で嗜めた。
「ちょっと三嶋さんー、親衛隊はこの拠点一のエリート集団、選ばれし者なんですよー。そんなゴキブリみたいに言わないでくださいー」
神宮寺が苦笑し、浩一がそっぽを向く。
“親衛隊……聖女……。聖女?”
話し込み始めた浩一たちを他所に、沙耶は神宮寺たちの言葉を頭の中で繰り返す。何かに引っ掛かる。これは前にもどこかで引っ掛かったはずなのだ。
「――あ!」
思わず声を上げた沙耶。だが会話が盛り上がっていて皆には気付かれなかったのだろう、神宮寺だけがちらと視線を向けるも、直ぐに会話に戻った。
沙耶は慌てて口を手で押さえ、ルシファーの裾を引っ張って屈ませると、その耳元で声を落として囁いた。
「思い出した、何か気になると思ったら聖女だ。ここの入口で、えっと……綺咲さん、から聞いた中で聖女って言ってて「何だそりゃ」って思ったんだった。で、もしかしてその聖女ってのが天族なんじゃない? ほら、天族って白い羽で天使っぽいし、如何にも聖女っぽくない?」
「はっ、あの脳筋族が聖女様ねぇ」
自信ありげに語る沙耶に、ルシファーが冷笑を浮かべ、そして肩をすくめた。
「ま、天使でも聖女でもどっちでもいいが、それを奴らに聞くのか? 「聖女様は天族ですか?」って」
意地悪く聞くルシファーに、沙耶の言葉が詰まる。
「うっ……それは、出来ないから……ひとまず静観の方向で」
くつくつと喉の奥を震わせるルシファーを置いて、沙耶は亜沙子たちへと歩み寄った。
先程から随分と話が盛り上がっているようだ。何の会話をしているのか気になった。




