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「……あれ、これは?」
店内を眺めていた沙耶が声を上げた。沙耶が摘んでいたのは服に付けられた値札だ。見るとそこには早速使われ出したクラという通貨単位とは別に「札」という単位が書かれている。
「ああ、それ。数日前にウケがいきなりクラとかいう通貨を使いだしてね。折角割符での流通に慣れてきたと思ってたのに、突然そんなの出してきて。そんなのあるなら最初から出してほしいもんだよ。おかげでこっちはてんてこ舞いでクラ表記もしなきゃなんなくなったんだ」
沙耶が疑問に思ったのは「札」という表記のほうだったのだが、おそらくこちらはクラが導入される前にこの拠点独自に使われていた代替貨幣の単位だったのかもしれない。割符という代替貨幣が当たり前だったであろう女店主からすれば、クラとかいう新たな貨幣のほうが異物なのだ。
女店主の至極迷惑そうな顔に、沙耶は心の中で謝罪した。
既にあった流通貨幣が突如変わる。それは唯物界であったのならば、円だけで帳簿をつけていたのに、突然「円通貨でなくドル通貨に変わる」と言われたようなものだ。実家の仕事を手伝っていた時にそんなことが起こったらと思うとゾッとする。
「お、気に入ったのがあったか」
浩一の声がして、思考を引き戻した。見ると浩一に声を掛けられて、亜沙子が慌てて持っていた服を戻していた。
「いらんのか? ってあー……まだ来たばっかだから割符もクラも持ってねぇか。そもそも魔結晶はあんのか?」
亜沙子が俯いて首を小さく横に振る。浩一は彼女たちの事情を察したように、白い歯を覗かせて亜沙子の背を叩いた。
「ま、心配すんな! 確か嬢ちゃん空飛ぶ馬に乗ってただろ。空飛べる隷獣持ちは軍部がせっせと募集してるからな、いいポジションつけると思うぜ」
「三嶋さんがそれを言う?」
「けっ! 俺ぁどんなに頼まれたってあんなとこ御免だね。息が詰まらあ」
悪戯っぽく笑い掛ける女店主に、浩一は辟易した顔で手を振る。その浩一を不安そうに亜沙子が見上げていた。
「え、あの、軍部って……? 軍ってことはもしかしてそこに入ったら魔物と戦わないといけないんですか……?」
「ん? おお、まあ、そうなるわな。とはいえ亜沙子ちゃんはまだ小さいから入ったとしても後方支援とか危なくねぇとこだとは思うぜ。それに何なら軍部にゃ入らねぇって選択肢もある。俺みたいにな。ただ軍部に入るのが一番稼ぎがいいからなぁ」
逡巡するように顎を擦る浩一。亜沙子は突然降って湧いた「軍部に入るかどうか」という選択に怯えているようだ。
「なら見学に連れてってあげたらいいんじゃない? 三嶋さん、前は軍部にいたんだから」
「そうなんですか?」
女店主の言葉に亜沙子がぱっと顔を上げた。浩一はバツが悪そうに口元を歪める。
「連れてって……って、俺が? あそこに?」
「そりゃね」
「うええ」
案内を買って出た時とは打って変わり、浩一はあからさまに乗り気ではない。余程軍部という場所に近付きたくないのだと伝わってくる。
「あ、あの……私、無理してまで見に行かなくて大丈夫です。その、浩一さんがそんなに嫌がるようなら、私も、ちょっと……」
恐縮そうにする亜沙子だが、その声音には僅かに安堵が滲み出ている。
だが浩一はそのことに気付かなかったようで、亜沙子が嫌がる浩一に遠慮していると受け取ったようだ。
腕を組み、「うーん!」と大声で唸りながら考え込むと、意を決したように両腕を腰に当てた。
「しゃあねえ、俺の我が儘に巻き込むわけにはいかねぇからな。行くか、統括区!」
にかっと笑みを浮かべる浩一に、亜沙子は顔を青くさせるも、浩一はそれに気付く様子はない。
今までの様子からするに、亜沙子は魔物と戦ったことなどないのだろう。だというのにいくら後方支援といえど、それを主な生業とする組織に入るかもしれないというのは恐怖に違いない。
そう沙耶は察していたのだが、正直統括区、ひいては軍部と呼ばれるような場所に興味があった。亜沙子には悪いが、このまま見学に連れて行ってもらえたら僥倖だ。
そうして浩一に連れられて商業区を北へ進み、三つ目の門の前へとついた。商業区へと入る門は常に開放されており、浩一の顔を見せるだけですんなりと入門することが出来たが、統括区へはそうもいかないようだ。門は閉ざされ、入門に際して様々なことを聞かれたが、訝しむ門番には浩一が全て代わって対応してくれた。
そして五分程問答が続いた後に、漸く沙耶たちの入門が許可された。
大きく重い門は開かず、その脇に設けられた小さな扉から中に入る。その隙間のような空間から声が漏れ出てくるのが聞こえた。一人ずつしか通り抜けられないので浩一を先頭に進む。
「うへぇ」
浩一がげんなりと溜め息をついた。浩一の背から身体をずらして中を眺めた。
そこにはコの字を九十度逆時計回りに動かした形で建物が並んでいた。一部屋ずつ一直線に並び、その部屋の前が全て屋根のついた回廊で繋がっている。その回廊を何人もの人々が行き交っている。その光景はどこか唯物界のオフィス街を思い起こさせた。
そしてその門の正面、開けた広場には隷獣を出した揃いの服を着た人々が点呼を取っている。その集団は訓練の行き届いた軍隊のようにきびきびとした声と統率された動きをしていた。
だからだろうか、商業区同様ここにも人は多い。
だが明らかに雰囲気が異なっていた。ぴんと張り詰めた空気が充満し、その空気を僅かでも乱すことは許されないような、厳格な雰囲気だ。背筋が伸び、思わず息を呑んだ。




