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「――おい。おい、起きろ。呼ばれてるぞ。……俺はこのまま寝てても構わんが、後で文句言うなよ」
身体を揺すられ、微睡みの中聞こえてきた呼び声に、沙耶は呻くような声を漏らしながら身じろいだ。重たい瞼を無理矢理こじ開けると、隣にベッドに腰掛けるルシファーの姿が見えた。
「うぬ……。おはよ……」
そういえば昨晩はルシファーにもたれたまま寝てしまったのだと、ぼんやりとした頭で思い出す。布団が掛かっているのを見るに、おそらく寝入った後にルシファーが掛けてくれたのだろう。
「外。来てるぞ」
身体を起こして頭をぐらぐらとさせる沙耶に、ルシファーが顎をしゃくるように扉を指す。暫く沙耶は何のことかわからず呆としていたが、弾けるように飛び起きた。
「あ! 亜沙子ちゃんたち!」
慌ててベッドから降りようとして、転がり落ちる。ルシファーが呆れたように倒れた沙耶に手を差し出す。
「落ち着け」
「ごめん……」
強く打った膝を擦りながら立ち上がり、扉を開ける。
そこには不安そうな顔をした亜沙子と優香が立っていた。
「おはよ。ごめんね、待たせちゃった?」
「だ、大丈夫です! あの、何かおっきな音がしましたけど……」
「あはは……気にしないで」
恥ずかしげに沙耶が目を逸らした。
二人は鳴り響いた鐘の音で目を覚ましたらしい。昨日の浩一の話を思い出すに、おそらく一の鐘と言われるものだろう。
この拠点の人々はこの一の鐘の音を起床の合図にしているらしい。となるとそろそろ浩一が迎えに来るかもしれないと、鐘が鳴っても一向に降りてくる気配のない沙耶を心配して迎えに来てくれたようだ。
「迎えに来てくれてありがとう。直ぐ出る用意をするから、一階のあの広いとこで待っててくれる?」
「あの……その、ここで待ってちゃ駄目ですか?」
亜沙子が申し訳無さそうに尋ねてきた。
この部屋は狭い。ルシファーは本調子に戻ってきたようなので、部屋に入って待っていてもらうのは問題ないだろうが、一階の入口近くの場所のほうが広くて、椅子もある。
戸惑っている沙耶の様子に気付いたのか、亜沙子が慌てて言葉を足した。
「そのっ……あの場所だと、前の拠点の人たちも……その、いて」
「ああ……」
得心した。
亜沙子たちは拠点の人たちに置いて行かれた。それは巨大な魔物に遭遇しての不慮の事故だったのかもしれないが、相手側も亜沙子たちも顔を会わせにくいのだろう。向こうは置いていってしまったという負い目があるし、亜沙子たちがそのことに対して罵詈雑言に非難するようなことはないだろうが、思うところもあるはずだ。
沙耶は亜沙子たちの心情を斟酌すると、「狭いけど」と断りをいれて部屋の中に招き入れた。ルシファーは部屋の隅へ椅子を持って移動し、亜沙子たちはベッドの一段目に腰掛けた。お互いに会話する気はないらしい。
沙耶は苦笑いを浮かべて手早く出立の準備を始めた。
とはいえやることは少ない。昨夜も荷解きする前に寝てしまったので、共用の洗面台に身支度を整えに行くくらいだ。残される三人を心配しながらも、ぱたぱたと部屋を出ていった。
沙耶が出ていった後の部屋には気まずい沈黙が漂っていた。
ルシファーは椅子に座って目を瞑っていたが、亜沙子たちからびくびくと怯える気配が否応なく伝わってくる。
小さく溜め息をついた。
「おい、何を警戒しているのか知らんが、取って食ったりなぞしない。いちいち怯えるな」
いきなり声を掛けられて驚いたようだ。びくりと身体を硬直させ、視線を何度も彷徨わせたが、亜沙子が意を決したように口を開いた。
「あの……お兄さんは、沙耶さんの……彼氏さんなんですか?」
「……は? ……ああ、そんな概念もあったな。――そんなんじゃ、ない」
咄嗟にそう返し、直ぐに「しまった」と後悔した。彼氏という立場を否定してしまったが「ならばどういった関係だ」と聞かれると面倒だ。
ルシファーが隷獣であると沙耶は――正確には竜巳が――知られたくないらしい。だがこうして傍目には無謀とも思えるような旅路に付き合うような人間の関係性でなければ説得力に欠ける。
「えっと、あの、初めて見た時――」
「幼馴染みだ」
「え?」
「あいつとは幼馴染みだ。無茶ばかりするのでほっとけないからこうして道行きに同行している」
自分の口で言っていて馬鹿らしくなってきた。人間の幼馴染みが果たして命を賭すような無茶に付き合うような間柄にあたるのかもわからないし、そもそも幼馴染みという振る舞い方がわからない。
面倒な、と苦々しげに眉を顰めると、その時沙耶が部屋に戻ってきた。
「お待たせ。……ってあれ、もしかしてルウと話してた? めっずらし――」
「幼馴染みだ」
「は?」
「お前と俺は幼馴染みだ。一緒にここに飛ばされ、今日まで一緒に旅してきた。そうだな」
じっとルシファーが沙耶の目を見つめる。その訴えかけるような眼差しに、沙耶は一瞬で状況を理解し、そして吹き出しかけた笑いを必死に押し留めた。それでも咳き込むような音を立てて息が漏れる。
ルシファーの眉間の皺が増えた。
「あ、あー。そう、そうなんだよ。家が近所でね、小学校の頃からよく遊んでて、高校まで同じだったんだけど大学で離れちゃって。久しぶりに会った時に召喚されてさ」
などと言いながら、沙耶は荷物を担いだ。そのままありもしない過去とルシファーとの思い出を語りながら、亜沙子たちを促して部屋を出る。
亜沙子たちは昨日からいた正体のわからない男の正体が知れて少し安心したようだ。それか沙耶の語る架空の思い出の中の、人間臭いルシファーの人となりで「怖い人ではない」と思えたのかも知れない。
ルシファーはそれを不服そうに聞いていたが、口を出すわけにもいかない。沙耶はそのどうにもならない立場に自滅するように立たされたルシファーを愉快そうに見ながら、口からでまかせの思い出を想像して更に内心で笑う。
“ルシファーの小学生時代……ランドセル背負ってるちっさいルシファーとか、笑える”
思わず零れそうになる笑みを押し殺し、一階へと向かった。




