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それを確認すると、肩をすくめて竜巳が沙耶の部屋の障子を閉じた。足音を響かせないようにそっと歩き出し、ある程度離れたところでミカエルが口を開いた。
「お前はあれをやらなくていいのか」
その言葉足らずなミカエルの問いに、竜巳は聞き返すことなく答える。
「ああ、俺はいい。刻式は大きな可能性の塊であることはわかっている。が、どうにもああいう理屈っぽいことは向かん。ちょうどよく沙耶があれだけ夢中にやってくれてるんだ、あれはあっちに任せるさ。比較優位性ってやつだ」
「私もあの手の小細工は好かないから気持ちはわかるが……。ならばお前の優位とは何なのだ」
「俺の? ふ、まあそれは、いずれな」
そういって竜巳はミカエルの肩に腕を回し、沙耶の部屋の前から去っていった。
その後数刻もしない内に呼び出しがかかった。
服作りが終了したのだ。
となれば残るはその試着である。
ルシファーは紙と石とに埋もれて眠り続けていた沙耶を叩き起こした。未だぼんやりと目を擦る沙耶はふらふらと足元が覚束ない。仕方なくルシファーが手を引っ張って天照の部屋へと向かった。途中その行進を見つけた竜巳とミカエルも興味深そうに見物に加わった。
沙耶たちが入っていったのは、天照の作業部屋とは別の部屋だった。おそらく作業部屋はまだ混沌とした状態のままなのだろう。必要な完成品だけを別の部屋に移したようだ。
その部屋に入ると、沙耶も竜巳も驚嘆の声を上げた。沙耶に至っては悲鳴に近い。
それもそのはず、ここは設えから他の部屋とは全く違う。
部屋の左右の壁は、流れる雲と太陽を象った意匠の金襖になっており、一番奥の壁は漆黒の漆面に花や蝶の模様の螺鈿が輝いている。床板は鏡面の如く磨き上げられ、天井は高さが二段階になっており、中央に向かって高くなっている。黒壇の木で格子組みされ、金色の金具が輝いている。
その遥かに高い天井を見上げるようにして口をあんぐりと開ける沙耶。部屋の雰囲気に圧倒されてしまっていた。
その部屋の左右にずらりと多種多様な服が並んでいる。どれも一つずつトルソーに飾られ、もはやそれ自体が一つの芸術品のようだ。その服の間が通路のようになっており、一段高くなった台に緋毛氈が敷かれ、部屋の奥から伸びている。まるでファッションショーのランウェイのようだ。
その上を優雅に天照が歩いてきた。一歩一歩大股で歩いているはずなのに、そうは見えない。その所作には品位と優美さがあり、まさしくファッションショーを歩くモデルのようであった。
「特別なことを行うのならば、それに見合う場を用意せねばな」
そう晴れやかに言い放った天照はここ最近の、ざっくりとしたまとめ髪に動きやすく襷掛けした作業着という格好ではなく、初めて沙耶たちと邂逅した時と同じ、妖艶で神秘的な衣装を身に纏っていた。
普段喧しく食事を催促し、口の周りに食べかすを付けているような人物だとしても、改めて彼女は只人ではないのだと思い直させる光景だった。
“窓もないのに部屋の中が明るい。一体どうやって……。やはりただならぬ御仁だ“
未だ部屋の空気に呑まれて声も出ない沙耶の隣で、竜巳が周囲を見渡し密かに舌を巻いていた。
「さあ、沙耶ちゃん! 着替えする場所はあっちだよ! どれからにする!?」
厳かな空気を意に介することもなく、声を上ずらせて圭吾が駆け寄り、沙耶の手を取った。苦労して完成させた己の作品たちの晴れ舞台だ。興奮しているのだろう。圭吾もお気に入りの服を着て気合を入れているようで、沙耶と初めて会った時と同じ真紅のドレスを着ている。髪も綺麗に結い上げられ、動くたびにドレスの裾が花が開いたように広がって何とも美しい。
部屋に入るまで目をこすっていた沙耶の眠気はとうに吹き飛んでいた。荘厳な部屋に美しく着飾った二人。
対して自分は寝起きの髪もぼさぼさのまま、何とも気の抜けた格好だ。あまりの場違い感に居た堪れなくなっていた。
「え、私ここで試着するの……」
「そうとも! どれから着る?」
震える声の沙耶に反して、圭吾は随分と楽しそうだ。いつもは人の機微に聡く、沙耶の僅かな様子で気持ちを察してくれる圭吾も、今日はその例に当てはまらないようだ。沙耶の助けを求める指先は虚しく空を泳いだ。
「着替える場所はあっちね! 希望ないなら、とりあえず僕と天照様チョイスで持ってくるよ」
圭吾が指差す部屋の奥の隅には、これもまた美麗な筆使いで山野を描いた屏風で囲まれた一角がある。背の高い屏風のおかげで、その中は確かに見えなくなっているが、国宝にでもなっていそうな上等の屏風に囲まれて着替えるのかと思うと目眩がしてくる。
ルシファーは沙耶の心情が流石に伝わっていたようで、慰めるように肩を叩くと屏風の隙間へと押し込んだ。さしものルシファーも、天照と圭吾の圧に、これは黙って従うほかないと諦めたようだ。
沙耶が部屋へと押し込まれると直ぐに、圭吾が一着目を持って駆け寄ってきた。
「着替えたら教えてね、僕が髪をいじるから。本当はお化粧とかもしたかったんだけど、流石に持ってないしね。あ、今度天照様に聞いてみようかな……。ま、とにかく髪くらいは服に合わせて変えたいから、出来たら呼んでね」
そう早口で言い終わると沙耶に服を押し付け、また駆け足で去っていった。
緋毛氈のランウェイの先には畳が敷かれ、その上には座布団まで置かれている。見物の態勢が完全に整えられていた。
その観客席のような場所の中央に、天照は陣取っていた。その右手側に竜巳とミカエルが並んで座り、左側が圭吾の席のようだ。




