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“とは言っても……”
沙耶は、夢中で魚を食べ進める天照へ視線を向けた。
“竜がこれだけ言っても取り付く島もないのに、私なんかが何を言えば説得できるのか”
そもそも祖神だと名乗る彼女のことを何も知らないに等しいのだ。説得のためにどうやって訴えかければいいのか、何を与えれば心を動かせるのかなど何もわからない。
沙耶は必死になって出会ってから今までのことを思い出す。そうは言っても沙耶はいきなり屋敷に引きずり込まれた後、会話もままならない内に早々に気を失っている。交わした言葉など数える程しかない。
そう、出会い頭に言われたのは――
「あ……」
ふと沙耶が言葉を零した。竜巳が口を開きかけたが、沙耶はその言葉を待たずに立ち上がり、何か意を決したような表情で天照の下へと歩き出した。竜巳だけでなくルシファーとミカエルも沙耶の動きを見守る。
近付いてきた沙耶に気が付いた天照が魚から顔を上げた。
「どうしたのじゃ、主も食うか」
「あの、えっと……お姉様!」
「ふぁっ!?」
突如「姉」と呼ばれた天照が、驚愕のあまり持っていた箸を手から落とした。竜巳たちも「何を言ってるんだ」と、目を丸くして疑いと驚きの眼差しで沙耶を見つめる。
「な、何を……。まさか姉様とは、わ、儂のことをそう呼んだのか」
「そうです……姉様! 私、まだ姉様と一緒にいたいのです」
「ぬあっ!」
しゃがみ込み、見上げるような体勢でそう切に訴える沙耶の言葉に、天照は胸を押さえて後退る。竜巳たちは突然始まった茶番を前に何が起こっているのかわからずに唖然としていた。蚊帳の外の竜巳たちからすれば茶番だが、当の本人たちにはそうではない。
沙耶は更に一歩前へと踏み込んだ。
「姉様、初めて会った時に私のこと「ちいさい」って驚いて「自分の服を着せてみたい」って私の服を脱がそうとしていたじゃないですか。あの時はびっくりしちゃったけど、私、やっぱり綺麗な姉様の綺麗な服を着てみたいのです! ……着せては、くれないのですか」
「うっ……」
「私、折角会えたお姉様と今直ぐに離れてしまうのは……寂しいです」
「ぐあーっ!」
天照が車に跳ね飛ばされたような絶叫を上げて倒れ込んだ。
その天照の手の上に沙耶は自分の手をおずおずと重ねた。躊躇うようにいじらしく触れるその沙耶の行動に、天照はぷるぷると震えだしたと思うと辛抱たまらなくなったように沙耶へと抱きついた。
「駄目じゃ、愛い! 儂の負けじゃ! はあー、やっぱりおなごは愛いのう! 儂、一度お姉様と呼ばれてみたかったんじゃ」
頬を擦り寄せ、その感触に満面の笑みを浮かべる天照。困ったように笑う沙耶だったが、痺れを切らしたルシファーが大股で歩み寄り、天照から無理矢理引き剥がした。
「なんじゃ、けちくさいのう。……まあ、あれじゃ。沙耶に免じて暫くは滞在を許してやる。精々その間に儂を説得してみせることじゃ」
天照はそれだけ言うと、くるりと魚へと向き直って再び箸を動かし始めた。
「姉と呼ばれたかったときたか。それでこうも簡単に折れるとは……ま、気持ちはわからんでもないが。とにかく沙耶、よくやった!」
竜巳が沙耶の肩を組み、天照に聞こえない程度の大きさで声を掛けた。沙耶は苦笑して頬をかく。
「自分でもどうかと思ったけど、上手くいったみたいで良かった。でも時間稼ぎにしかならなかったね」
「いいや、それは全く否だ。先程までの俺たちは、風下に立つ短くなった蝋燭の火だった。それが今や蝋燭は太く長くなった。相変わらず風は止まないが、暗闇は十分照らせるだろう」
興奮を抑える竜巳の、妙に詩的で回りくどいような言葉に沙耶はくすりと笑った。
“ミカエルの話し方にどうこう言ってたけど、あんまり変わらないじゃん。似た者同士だ“
ほっとしたように胸を撫で下ろす竜巳が、天照に視線を向けたまま沙耶の耳元で囁くような声を出した。
「それに沙耶も天照殿と話してわかったろ」
潜めるような竜巳の声音に沙耶が首を傾げた。
何か聞かれると不都合なことなのだろうか。
「奴からの情報は砂漠に湧き出た泉に等しい。今の俺たちが最も欲するものだ。それに……」
竜巳がちらとミカエルとルシファーを見て、いたずらっぽく口角を上げた。
「天照殿の回答は端的で理解が容易だ。あいつらと比べりゃ天と地よ。こんな絶好の機会を逃してたまるか」
「……! 確かにそうだ」
竜巳が声を落としていたのは天照にではなく、自分たちの隷獣相手だったのだ。「確かに聞かせられないな」と思いつつも、沙耶も竜巳の意見に全面的に同意していた。




