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沙耶は思わず息を呑んだ。扉の向こうの光景が目に飛び込んでくる。
広がっているのは優美な日本庭園のような中庭だった。中庭といってもかなり広い。回廊で囲まれている空間しかここにはないはずだが、明らかにこの場所はそれよりも広く見える。
最初に飛ばされた屋敷の立つ空間では、空も風景もなく、虚無のような空間に建物がぽつんと建っているだけのはずだったが、この中庭には、木や草花が咲き誇る庭園風景が端の見えない先まで続き、空には青空が広がっている。どこか寂しい感じすらあったあの空間に建つ建物の一部にはとても見えなかった。
その中庭の一角に巨大な白い狼が屹立していた。
人間の二倍程の大きさはあるだろうか。純白の毛並みの中、鼻の先から背に掛けて青白い炎のような毛が靡いている。尾の一部と鋭く尖った爪も燐光のように光っている。その凛々しい顔つきをした狼が大きく遠吠えをあげた。空気がびりびりと振動し、建物が細かく震えている。
沙耶はその威圧感に思わず身をすくめ、ルシファーの服の袖を握りしめた。
だがその巨大な狼のすぐ横に立っている木の下に、見覚えのある赤ら顔がふと目に入った。竜巳とミカエルだ。真横にそびえる狼が見えていないのかの如く、意に介することなく二人で酒を酌み交わしている。
よく見ればその二人の奥には巨大な魚が火に炙られており、白い煙を共に鼻をくすぐる芳香がここまで漂ってくる。その焼き魚の傍には、崩れ落ち、身悶えている天照の姿をも見つけることができた。
倒れて意識を失ってからの状況を何とか理解しようと努めていた沙耶だったが、ここにきてその理解が許容量を超えた。
「見れば……わかる」
ルシファーに言われた言葉を鸚鵡返し、もの言いたげな顔で見上げる沙耶。見つめられたルシファーは気まずそうに眉根を寄せて目を細め、「悪かった」と口ごもった。だがすぐに首をひねるように口を開いた。
「いや……いや、これ俺は悪くねえだろ。何だこの状況は」
「ルシファーにわかんなきゃ私にわかるわけないでしょ」
ルシファーと同じ表情をして沙耶も遠い目でこの光景を眺めた。
その時、巨大な狼がぴくりと鼻をひくつかせ、ぱっとこちらに振り向いた。距離はだいぶ離れていたが、狼は沙耶たちに気が付くと、この程度の距離などものともせず、瞬きの間一気に駆け寄ってきた。
見上げる程に大きく、鋭利な爪と牙を持つ獣の接近に、沙耶はびくりと顔を強張らせ、ルシファーの背に隠れた。そんな沙耶では、狼が尾を振っていることになど気付く余裕などあるはずもない。
狼はその沙耶の様子に気が付くと、急ブレーキをかけたように駆けていた足をぴたりと止め、勢いよく振られていた尾は力なく垂れ下がった。
傍目にも肩を落としているのがわかる狼の様子に、ルシファーは腑に落ちるものを感じていた。
“ああ……踏ん切りをつけられずにいた理由は、これか”
五歩程の距離を残して立ち止まった狼に体を強張らせていた沙耶だったが、ふと何かに気付き、顔を上げた。その沙耶の表情には既に不安も怯えもなかった。
「ユキ……?」
そう小さく呟いた沙耶は思わず手を伸ばしていた。
「バウ!」
垂れ下がった尾を伸ばし、呼びかけに応えるように大きく鳴いたその声は、沙耶の知るユキのものとは全く異なるものに変わっていた。あの高く澄んだ可愛らしかった面影はなく、低く頼もしさすら感じられる芯の通った声になっていた。
だがその底に、沙耶に甘えるような響きが確かにあった。
確かにこれはユキの声だった。
「ユキ!」
沙耶が両手を伸ばすと、その腕の中に顔を埋めるように、巨大な狼へと変わったユキが顔を擦り寄せてきた。ふわりと柔らかく、それでいて艶やかな毛並みが何とも心地いい。その気持ちよさに頬ずりしてしまう沙耶に、ユキは喜色満面で風を発生させるほど勢いよく尾を振る。
「はあ……気持ちいい。ああ、ユキってばどうしたの? いきなりこんなおっきくなっちゃって。成長期が極端すぎない?」
「ようやく成ったか、転変が」
「てん、ぺん? ルシファーってばユキがこうなること、知ってたの?」
ルシファーが呆れたように、体ごとめり込みそうになっている沙耶をユキから引き剥がした。沙耶が乱れた前髪を整えながらルシファーに問いかける。
「こいつは白狼。雪原の王者とも呼ばれる、魔界に生息する種族だ。この白狼って種族は成長すると転変という行為を経て成体となる。……とまあ、俺はそう思っていたわけだが、実際は成体に足る力と経験を得ることで転変を行えるらしい。そしてこいつはその経験を得て転変を成した、というわけだ。ふむ……あの背後でこんがりと焼かれている巨大な魚がそれか?」
「経験……魚って……ってあれ、あの魚、どっかで見たことあるような」
「何? ……あ、あいつ!」
ルシファーが沙耶を抱いたまま、白い煙が立ち昇る付近へと駆け寄る。ユキもその後に続く。
「お、沙耶。やっと起きたか。美味いぞ、お前も食うか?」
「竜、それにミカも。ってまたお酒飲んでるし。その食べてるのって……ルシファー、これ」
「ああ。どうりで見覚えのあるはずだ。こいつは何時ぞやのあの腹立たしい魚類じゃねえか」
酒を酌み交わす竜巳とミカエルへの挨拶もそこそこに、ルシファーと沙耶は火に焼かれる魚の姿に目を見張っていた。
それは圭吾たちから離れて旅立ってすぐに遭遇した、海の狭間で戦ったあの巨大な銀色の魚だったのだ。




