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「くっくっく……誰だか知らんがもっと言ってくれという気分だな。ミカ、お前もだぞ」
喉の奥を震わせるように笑いながら、竜巳が御簾を持ち上げて室内へ入ってきた。ミカエルもその後を何事もなかったかのように平然と続く。
「男。儂は入室を許可した覚えはないぞ」
「何、俺もその娘の連れだ。様子を見させてくれ」
険のある声で言い咎める女を無視して、竜巳が足音を立てて沙耶に近付く。
「吐いた後に気絶したか。……ふむ、口の中は問題ないな」
「当然じゃ。この儂に抜かりはないわい」
沙耶の口内に吐瀉物が残ってないか竜巳が確認すると、女が鼻を鳴らした。
「介抱してくれたというわけか。なら服が乱れているのも襟元を緩めようとしたからか――」
「ああ、いや。それは儂の趣味じゃ。せっかく脱がせようとしとったのにの」
「あ?」
残念そうに溜め息をつく女に、ルシファーが額に青筋を立てる。竜巳がわざと大げさに咳払いをした。
「ま、まあそれは聞かなかったこととして……いきなり異空間に飛ばすわ、沙耶だけ攫うわでとんでもない奴かと思ったが、ひとまず俺たちに敵意はないということでいいか。だとしたら改めて互いに名乗りたい」
そう言うと竜巳は指を差すように一人ずつ視線を向けながら、それぞれの名前を代わりに紹介し始めた。
沙耶とユキは意識がなく、後の二人に至っては自分から名乗るのを待っていては日が暮れる。
「まずはこの俺、東雲竜巳だ。で、あっちの素っ気なさそうにしているのが俺の隷獣のミカエル。で、あっちでぶっ倒れてる娘が藤原沙耶で、殺気をバシバシ放っているのがその隷獣のルシファー、近くに転がっているわんこがユキだ」
「やはり其奴らは名持ちだったか」
興味なさげに聞いていた女が、ぽつりと呟いた。
「まあ男の名などどうでもよい。そもそも儂の屋敷に男がいること自体が不快じゃ。じゃが今はそれも目を瞑ってやろう。――者共、謹聴せよ!」
女は胸を張り、ばっと風を切るように右腕を振り上げ、高らかに宣誓するかの如く名乗りを上げた。
「儂の名は天照。天照大御神なるぞ!」
天照と名乗った女は腰に手を当て、自信に満ち満ちた顔で竜巳たちを睥睨する。だが、大仰な名乗りに反し、竜巳たちの反応は薄い。天照は不服そうに口を尖らせた。
「何じゃ何じゃ。そこはばばんと驚かんか。日本の最高神の名なるぞ」
「そうは言ってもあっちの……唯物界の天照大御神とは別もんなのだろう」
竜巳が思い出すように首を傾げる。天照が顔をしかめた。
「ちっ、つまらん。やはり名持ちがいるなら知っておるのか」
「名持ち?」
「そうじゃ。我ら幻視界の者は否応なく唯物界の影響を受ける。幻視界で強い力を持って生まれた者は名がつく。それを名持ちと呼ぶ。そして名は体を表す。儂は唯物界の人間が思い描く天照大御神の影響を受けるのじゃ。故に儂は確かに別個体だが、同じように崇拝しても構わんのだぞ。というかこの程度のこと、そこの名持ちどもから聞いとらんのか」
訝る天照に、竜巳がこめかみに指を押し当てて唸る。
「知らん。どうもこいつらは物事を説くのが至極不得手らしい」
顔をしかめていた竜巳だったが、ふっと口角を上げ、にやりとほくそ笑んだ。
「その名に、これだけのことをやってのける力。貴殿、この地界で相当上位の存在と見た」
不敵な笑みを浮かべる竜巳に対し、天照は顎を上げて腕を組んだ。そのどこか尊大でありながら、それに見合う威厳が確かにその風格にはあった。
「上位も何も。我こそが地界で、地界とは我よ」
天照のその言葉に、先程まで全く反応を示さなかったミカエルとルシファーが身じろいだ。
「まさかお前……祖神か」
「やっと気付いたのか、愚か者どもめ」
驚きと疑惑の目を向けるルシファー。天照はそれを一笑に付す。
「そしん……? 先祖の神ってことか?」
竜巳が言葉の意味を頭で思い浮かべる。言葉自体は知っているのに、天照が言うところの意味を伴っていない気がした。
「そうではない。祖神とは世界の原初に在り、世界を創める者。祖先であり、礎《いしずえ》であり、素体である。故にその存在は高次であり、我らと隔絶する。それが祖神だ」
「あん?」
朗々と語るミカエルに、竜巳があからさまに顔を顰める。
「何をごちゃごちゃ言うておる。祖神とはつまり天界なら天帝、魔界なら魔王と呼ばれる者どものことじゃ。つまり彼奴ら同様、儂はこの地界そのもの、地界の化身なのじゃ」
天照の言葉は、幾分かはミカエルよりも端的だ。
だが、それでも竜巳の理解が及ばない。話の規模が違う。神話が本当は歴史上の事実だった、とでも言われている気分だ。
「ええと、つまり……貴殿自身が地界であると。じゃあ何だ、もし貴殿が死ねばこの地界はなくなるのか」
「だからそう言うておるじゃろ」
「……マジか」
冗談半分で言った例えが真実であると返され、竜巳は面食らう。衝撃の事実に加え、目の前にいる人物の想像以上の高次元の存在ぶりに、止まってしまいそうになる思考を無理矢理追い立てるように動かす。
“ミカたちの存在も唯物界にいた頃の俺なら十分信じがたいものだが、異次元とはまさにこのことか。……だが今、肝心なのはそこではない”
奔走する思考は徐々に冷静さを取り戻し、竜巳の思考を本来向かうべき道筋に戻す。
竜巳は天照に改めて向き合った。




