109
例の場所に向かうと決めた沙耶たちだったが、即時直行することにはならなかった。
この日は既に日が落ちていたということもあり、沙耶たちは竜巳たちが逗留している宿に同じく身を寄せることにした。
この拠点は唯物界だった頃は観光地だったようで、宿泊業に携わっていた者が多く召喚されていた。それもあってか、拠点内に少ないながらも宿が存在していたのだ。とはいえこんな世界で人の往来など絶えて久しい。宿泊客が来ただけでも驚きだったろうに、竜巳以外にも増えたことで、宿の主人は大変驚き、喜んでいた。
それは収入を得られたことへの喜びではなく、元の世界と同じ営みが出来たことで、僅かでも日常を取り戻せた感覚が嬉しかったのだ。
翌日も四人は宿に滞在し続けていた。
竜巳は朝から一も二もなく沙耶たちを引き連れて魔物狩りに向かった。
木のオールを持って直接魔物と対峙する沙耶にひとしきり笑った後、竜巳はあっという間に魔物の素材化のコツを掴んでしまった。こっそりと落ち込む沙耶を他所に、竜巳は宿の主人にそれを使った料理を頼み込んだ。
当初は眉を顰め、信じ難いものを見る目をしていた主人も、調理をし始めると顔色が変わり、恐る恐る一口味見をした瞬間、膝から崩れ落ちて感涙してしまった。竜巳はその反応で味を確信したのか、一口目から豪快に食いつき、そして感嘆の声を上げた。
魔物食は喜びに溢れた宿の主人と竜巳によって一気にこの拠点中に広まり、その日の内にはあちこちで歓喜の声が飛び交うこととなった。
辺りが宵闇に包まれ、月が真上に昇る頃になってもその半ば祭りと化した盛り上がりは続いた。拠点のあちこちから煮炊きする煙が立ち昇っている。その煙の下では喜ぶ人々の顔があるのだろう。
大量の食べられそうな魔物を拠点の住民たちに渡すだけ渡すと、沙耶たちは宿に戻ることとなった。予定では旅の物資を買い足すつもりだったのだが、それはどうやらまた後日になりそうだ。
魔物を狩り続け、熱狂に揉まれたことで疲れ切った顔になっていた沙耶だったが、悪い気分ではなかった。
何より心地よい疲労の中入る温泉は格別だ。ほくほくとしながら部屋へと戻る途中、縁側で壁にもたれて晩酌する竜巳を見つけた。ミカエルの姿は見えず、置いてある猪口や皿から一人で飲んでいるようだ。
沙耶が温泉に行っている間、ルシファーとユキには部屋で留守番を頼んである。直ぐに戻らなくても大丈夫だろう。
沙耶は濡れた髪をタオルで拭きながら竜巳の傍へと歩み寄った。
「また飲んでるの?」
「……ん? おお、沙耶。風呂あがりか。ここの温泉は気持ちいいだろう。ほれ座れ。お前も飲むか? ああ、猪口が足りんな」
「私はいいよ。ちょっと顔見に来ただけだし」
そう言って沙耶は竜巳に背を向けるようにして、縁側から足を出して腰掛けた。涼しい夜風が火照った頬に心地よい。
暫くそうして互いに何も話すことなく、静かに月夜を眺めていた。
竜巳とはまだ会って二日と経っていない。ほぼ顔見知り程度の仲だ。普段の沙耶ならば、よく知らない他人との沈黙は気まずくて苦手だったはずだが、何故だか不思議と竜巳とはそういったものが気にならなかった。
昨日竜巳が言った「きっと長い付き合いになる」という言葉が、今は沙耶にもやけに胸にしっくりきていた。
「沙耶」
「……ん、何?」
このままお互いに何も喋らないままかと思っていたからか、声を掛けられた沙耶は返答に少し時間を要した。竜巳は特に気にすることなく静かに口を開いた。まるで独白でもするかのように。
「俺はな、家族がいないんだ」
沙耶はぶらぶらと振っていた足を止めた。
「元々片親だったんだが、その親すらも俺が幼い頃に、俺を施設に預けて蒸発した。まあ、その施設の人間が家族といやあそうなんだろうが、どうにも俺はそう思うことが出来なかった」
なんてことのないように話し始められた衝撃の内容に、沙耶は口を開いたまま何も言葉を発することが出来なかった。驚愕に固まる沙耶は、そう思っていることをなんとなく気付かれたくなくて、そっと音を立てないように振り返った。
竜巳はこちらを見てはいなかった。ただぼんやりと猪口を持ったまま、空を見上げていた。
「この世界に飛ばされてから何人もの人間に会ってきた。家族に会いたいと泣き喚く者も、大切な奴と離れ離れになってしまったと怒り狂う者にも。もちろん俺にもあちらに大切にしてきた奴らはいる。友人や仕事仲間とかな。……だが俺は自己を喪失する程絶望し、やつれる程乞い願ってまで彼らに会いたいかと言われれば……違うと思う。俺は他の奴らと違い、死に物狂いで元の世界に戻りたいと思っているわけじゃないようだ」
沙耶は振り返った顔を戻した。何を話していいかわからなかった。
情報を求めてこんなところにまで旅してきたというのに、竜巳はこの現状が悲しいわけではないのだという。だがその顔は、その声は悲哀の色が滲み出ていた。
悲しめないことが悲しいのだ。
「沙耶、お前はあちらに家族はいるか」
「う、うん。いるよ。お父さんにお母さん、それに妹が一人」
沙耶は思わず振り返り、口早にそう答えていた。竜巳は沙耶の答えを聞くと、ふっと微笑んだ。
「そうか。……なあ、お前の家族の話を聞かせてくれないか」
竜巳の言葉には、初めて会った時の押し切るような勢いも、溢れるような自信もなかった。ただそう沙耶に頼んでいた。沙耶は戸惑いながらも、竜巳の頼みに応えることしか出来なかった。
だが改めて家族のことを話そうとすると、言葉に詰まってしまった。家での仕事のことや学校でのことは思い出すことは何度もあったが、家族については極力思い出さないようにしていたのだと、ふと今頃になって気が付いた。
何から話し出せばいいか分からず、口籠ってしまうが、竜巳はそれをからかうでもなく急かすでもなく、沙耶の言葉を静かに待っていた。
そして沙耶も次第に頭の整理が出来て、ぽつりぽつりと話し始めた。




