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ミカエルはこじんまりとした平屋建ての上空で止まった。
茅葺屋根で、土壁の日本古民家といった風体だが、よく見ればその造りは新しい。見れば似たような造りの建物がいくつも近くに建っている。その内の一つ、建物の正面に小さな池と、その近くに腰の曲がった老人の如く幹が傾斜した松が植わっている。そしてこの庭が見渡せる位置に縁側が備わっており、ミカエルはその軒下に降り立った。ルシファーもそれに続けて近くに降り、沙耶をそっと下ろした。
「沙耶、腕は」
「大丈夫だよ、ほっとけば治るって」
沙耶は反対の手をひらひらと振って歩き出す。ルシファーは何も言わず沙耶の前へと進み出た。
「で、お前の主はどこにいる」
だいぶ落ち着いたようだがルシファーの語気は鋭い。だがミカエルはそれを特に意に介することなく、辺りをきょろきょろと見回している。
「ふむ、あやつどこへ……」
どこかのんびりとしたその態度にルシファーが舌打ちする。沙耶も建物に目を向けるが、人影は見えない。
“いないのかな。……あ、でもあれ“
沙耶が気付いたのは、縁側に置かれた数本の徳利と猪口だった。どうやら全て空になっているようだ。
その時ミカエルが縁側の奥につと目を向けた。
「帰ったか」
ミカエルにそう呼びかける声がした。
見ると建物の奥から足音を立てて、一人の長身の男が歩いてきた。
胸元を大きく開き、ゆったりと帯を巻いた着流しの上に、肩から羽織を掛けている。その片手には二本の徳利が指に挟まれてぶら下がっている。しっとりと濡れた、僅かに赤褐色が混じる黒髪は手荒くかき上げられ、着流しから覗く手足からはがっしりとした筋骨を、力強い双眸からは意志の強さを感じさせた。
この男がミカエルの、大天使の名を冠する隷獣の主なのだと、沙耶は一目で理解した。目の前の男にはそれだけの風格があった。
思わず佇まいを正す沙耶。ところが男は沙耶たちに気付いていないのか、勢いよく縁側に腰を下ろすと、だらりと胡座をかいた。
「まったく、主に居場所を告げずに勝手にどこぞへ行く奴があるか」
「ふらりと歩き回るのはお前もだ。それに先程までそこで酔い潰れていただろう」
「おう。だから酔い醒ましにひとっ風呂浴びて、これから迎え酒だ。お前もどうだ」
豪気に笑いながら、男は今しがた持ってきたばかりの徳利を掲げた。
“え、え? あ、酒臭っ! 何、酔っぱらい?“
戸惑う沙耶が思わず身じろいだ拍子に、足が地面を擦って音を立てた。男はそこで初めて来訪者の存在に気付いたようだ。
「ん? 誰だ、その嬢ちゃんと兄ちゃんは。お前が人間を連れてくるなんぞ珍しいこともあるもんだ」
「片方は人間ではない」
「はあ?」
面食らった声を上げる男を他所にミカエルも縁側に座り、もう一本の徳利を手に取った。
“あ、この人説明ぶん投げたぞ。というか……“
沙耶が身を乗り出した。
「天族ってお酒飲むの?」
「飲むが? 貴女も飲むか?」
ミカエルが小さく首を傾げながら、酒の注がれた猪口を差し出す。だがルシファーが沙耶の肩に片腕を回して自分の方へと引き寄せた。
「誰が飲むか」
「お前には聞いていない」
「ああ?」
「こら、いい加減にしなさい。何回突っかかるの」
またもや一触即発の空気と化したのを、沙耶が慌てて止める。男はその様子を面白そうに見ていたが、顎をさすりながら口角を上げた。
「ミカ、お前が連れてきたそいつら、もしや……俺の探し人か」
「さあな。でもどうやらあの男も私と同じ立場のようだ。……あとはお前が進めろ」
「良くやった!」
大きく膝を叩く音と共に男が快哉を上げる。沙耶はびくりと肩を震わせて男に視線を向けた。
「自己紹介もまだだったな。俺は東雲竜巳。このミカエルの主だ。まあ座れ、長くなる。ああ、飯は食ったか。まだか、なら用意しよう。とはいっても碌なもんはないがな」
そう一気に捲し立てる竜巳に促されるままに、沙耶たちも縁側へと腰掛けた。竜巳はどかどかと動き回り、あっという間に握り飯や肉の塩焼き、飲み物などを用意した。近くにウケたちのいる座があるのかもしれない。
竜巳と沙耶は隣に並んで縁側から足を下ろして座り、ミカエルとルシファーは少し離れたところの柱にもたれかかるようにして座った。
偶然巡り合った沙耶と竜巳、そしてそれぞれの隷獣である魔族と天族。世界の運命を大きく動かすことになるこの四人の出会いは、こうして小さな庵の、質素な縁側から始まったのだった。
ユキが庭を駆け回っている。竜巳が用意した食事には殆ど手を付けず、新しいこの場所を探索するようにあちこちを見て回っている。
その様子を横目で見ながら二人は話を始めていた。
「なに、嬢ちゃん大学生なのか。てっきり中学生くらいかと思ったぞ」
「大学生に見えないとはよく言われますけど中学生は流石に言い過ぎじゃないですか? そういう竜巳さんは二十五歳なのに起業してるなんて凄いですね」
「はっは! 企業勤めが究極的に合わなかっただけだ。というか敬語はいらんぞ、名前に敬称もいらん。勘だが、きっと長い付き合いになる。俺のことは竜と呼んでくれ。ああ、あいつはミカでいい」
竜巳の勢いに圧倒される沙耶だったが、気安い性格なのだろう。不思議と沙耶も最初から気を張らずに話すことができた。
「いやいや、勝手に決めていいの?」
沙耶は視線をミカエルに向ける。ミカエルはそれに気付くとゆっくりと瞼を閉じて同意を示した。
「主である竜巳がそう決めたのなら、それでいい」
「ミカ……は竜巳って呼んでるじゃん。そもそも「りゅう」と「たつみ」って全然音が違うけど」
竜巳が猪口で一気に酒を飲み干した。
「俺は蛇が嫌いなんだ。まあ、そんなことよりだな」
「ええ……」
予想外の答えに絶句する沙耶をおいて、竜巳は徳利や握り飯の載った皿を押し退け、何処かから持ってきた大きな紙を二人の間に広げた。
「俺もミカから色々と聞いてはいるが……ルシファーと言ったか、そちらの持っている情報も教えてくれ。ミカは天界のことしか知らんのでな。魔族ということは魔界のことは知っとるんだろう。俺も知っていることを話そう」
竜巳はペンを握ると、もう一本を沙耶に投げ渡した。沙耶はそれをわたわたと掴んで頷き、ルシファーから聞いた話を、そしてこれまでのことを掻い摘んで話し始めた。




