104
「その澄ましたお顔に一発入れてやりゃあ――がっ!?」
釣り上がった眦で睨むルシファーから、くぐもったうめき声が漏れた。
相対していた男も驚きに目を丸くしている。
沙耶がルシファーの腹を思い切り蹴り飛ばしたのだ。思わず緩んだ腕から沙耶が零れ落ちた。
ルシファーはぎょっと表情を凍らせた。
「落ち着け、この馬鹿!」
沙耶は上空から落ちながらそう叫んでいた。
ルシファーは汗を浮かべ、歯を食いしばるように咄嗟に手を伸ばした。その手が空振る。ルシファーは真っ白な頭で絶叫していた。
「沙耶っ!」
加速して急降下したルシファーの腕が、伸ばされた沙耶の手を掴んだ。自重がその腕一本にかかり、がくっと肩が揺らいで、その痛みで沙耶が顔を歪めた。ルシファーはさらに降下し、潜り込むようにして沙耶を抱きかかえた。
「この馬鹿野郎!」
ルシファーが怒鳴る。
あの瞬間、呼吸が止まっていたのではと思える程に心臓がばくばくと脈打っているのがわかる。どっと脂汗が流れ出しているのに、指先が冷たい。沙耶を抱える腕は僅かに震えている。
俯く沙耶の表情が見えない。ルシファーは沙耶の顔に手を伸ばした。
「馬鹿はそっち!」
その手を払い除けるかのように、沙耶が振りかぶって顔を上げた。真剣な瞳がルシファーを見つめている。
「何なのあの態度は! 虚勢を張るチンピラみたいなことをして」
「は、はあ!? お前、何言って――」
「私のルシファーが、そんなダッサイことしてんじゃないよ!」
沙耶がルシファーの顔を両手で叩くように挟み込んだ。近付いた沙耶の両の眼は、じっと真っ直ぐにルシファーの目を見つめている。
ルシファーは目を見開き、呆然とした後、くしゃりとその顔を歪めて笑った。
「――ふ、ふふっ。お前の、俺か。ふ、ははっ。そうだな、悪かったな」
ルシファーが笑ったを見て、沙耶もほっとしたように表情を綻ばせた。
「いっつつ……」
「沙耶!?」
緊張が溶けたのか、沙耶の顔が青白く苦悶に引きつった。先程ルシファーに腕を掴まれた時に肩を痛めたのだろう。何より自分でしでかしたこととは言え、空高くから落ちかけたのだ。今になって恐怖が背筋を這い上がってきたのだ。
「馬鹿、お前、ほんと無茶しやがって」
「ふふ……そうでもしなきゃルシファー、あの人に殴りかかってたじゃない。お馬鹿……。いいの、痛いのは私の自業自得だから。……それにちゃんと掴んでくれるって、分かってた」
痛みに顔を引きつらせながら、沙耶は小さく笑う。
その顔を見てルシファーは改めて身の竦む思いをしたのだ、と沙耶の額に頭をつけて溜め息をついた。
「俺が悪かったからもう二度としないでくれよ、主様」
「うん。ごめんね、ルシファー」
沙耶が嬉しそうにルシファーにもたれかかった。
「ワン!」
「あ」
「な、痛っ! あ? わんころ何しやがる!」
沙耶の鞄から身を乗り出したユキがルシファーの腕に噛みついた。
「あ、ああ! ごめんユキ! 私が落っこちたらユキまで巻き添えになっちゃうとこだったね! ごめんごめん! やっぱ考えなしだったね」
はっと気付いた沙耶が慌てて謝るが、ユキはルシファーの腕から口を外さない。その表情はルシファーに向かって「そもそもこれはお前の落ち度だろう」と言葉よりも雄弁にそう物語っていた。ルシファーにもそれはありありと伝わっていたため、「うっ」と図星を突かれたように顔を背けた。
だが一方的にやられているルシファーではなかった。
「だがお前がやることやってりゃ沙耶は落ちることもなかったんじゃねえのか」
そう小声で呟いたルシファーに、ユキが食いしばっていた歯を止めた。そして互いに気まずそうに視線をそらした。
沙耶は突然大人しくなったユキに、首を傾げていた。
「あ、というかあの人は? すっかり放っておいちゃった」
「はっ! ほっとけ、あんな奴」
「ルシファー!」
語気を尖らせる沙耶に、ルシファーがそっぽを向く。「もう」と肩をすくめて見上げると、天使のような男はまだ先程と同じ位置から腕を組んでこちらを見下ろしていた。
「あ、待っててくれてる。やっぱり悪い人じゃないんじゃないの?」
「おーおー寛大なこって」
「あんたねぇ……」
突っかかるルシファーを小突き、元の場所に戻るよう促す。ルシファーも渋々といった様子で飛び上がった。
戻ってきたルシファーたちを男は興味深そうに見つめる。
「あの、お騒がせしてすみません。不躾ですが、あなたはえーっと、天使様ですか?」
ルシファーに抱えられたまま、沙耶が頭を下げて声を掛けた。ルシファーが色々と知っていそうだが、任せると埒が明かない。
男は表情を変えることなく答えた。
「私は人間の言う天使ではない。天界に住まう天族だ」
天界。その言葉に沙耶は、昔ルシファーがこの世界には天界、魔界、そしてここ地界があるのだと言っていたことを思い出す。
“天界と魔界、仲の悪い外国って感じなのかな“
天族の男は続ける。
「私は天族のミカエルという」
「ミッ……!」
飛び出したあまりにも有名な名称に沙耶が驚きの声を上げる。それはルシファーと同じく、聖書や創作物の中で度々見かける大天使の名だ。
“やっぱり天使じゃん! あ、でもルシファーだってあっちじゃ悪魔の名前だけど、こっちじゃ魔族って言ってたな。あっちとはまた違う存在ってことなんかな、二人とも“
目を瞬かせる沙耶とむすっと不機嫌な顔を反らしているルシファーとを見て、ミカエルと名乗った男は顎に手を当てた。
「ふむ。貴女がその魔族の主か。まさか魔族を隷獣とするとは、あやつ以外にも珍しい人間がいるものなのだな」
「あやつ……? あ、もしかしてあなたも誰かの……」
「はっ、何だ、てめぇも同じなんじゃねぇか」
「茶化すな、話が反れる!」
沙耶がルシファーを顔を手で押し退けて、続きを促すようミカエルに向き直る。
「いいだろう、ついてこい」
そう言うとミカエルはくるりと踵を返し、紅葉の中にいくつか覗く建物の一つへと向かって行った。ルシファーは不服そうにしながらもその後を追う。
沙耶はいつの間にか乾いていた口で、唾を無理矢理飲み込んだ。
まさかルシファー以外にも言葉を話す隷獣がいたとは。ルシファーだけに限ったことではない、他にもいるはずだ、とは思っていたが、とうとうこうしてその人物に会うことができた。
何かが大きく変わる、そんな予感に沙耶は思わず胸を高鳴らせていた。




