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夜が明けて移動し始めた二人と一匹だったが、昨夜のような張り詰めた緊張感は鳴りを潜め、ルシファーはどこか上の空でぼうっと考え込んでいるような様子だった。ユキはあの後一睡もしていなかったのか、今は鞄の中で眠っている。
距離が離れたからだろうか、刺々しい程の警戒はなくなったようだが、今度はルシファーの様子がおかしい。普段からは打って変わって茫としている。今朝からは生返事ばかりだ。
昨日のあの緊張感の最中では沙耶も声を掛けるのを憚られたが、そうもいっていられない。腰を据えて話をする為、沙耶はルシファーを引っ張り、地上へと降ろさせた。
何故地上へと降りたのかわかっていないルシファーは眉を潜めたが、それすらも続かずに直ぐに思索にふけってしまう。沙耶は一人、気合を入れ直した。
「ルシファー!」
「うお。何だ、急に」
沙耶がルシファーの腕をぐいと引っ張ると、虚を突かれたようにびくりとしてルシファーが振り返った。
「急じゃない! 朝からずーっとぼーっとして! 話しかけていいか、ずっとやきもきしてたんだから」
そう言い募る沙耶を怪訝な表情で見返すルシファー。沙耶が何を言いたいのかわからない、といった顔だ。わからない、ということは昨夜からの自身の様子がおかしくなっていることにすら気付いていないのだろう。段々と腹が立ってきた。
「話してくれるまで待ってようと思ってたけど、もう聞く! 昨日のって結局何だったのさ?」
沙耶の言葉でやっと合点がいったように、ルシファーは「ああ」と呟くと、逡巡するように視線を巡らせた。
「まあ、そうか。だが……ふむ。あれが何か、ってもな」
普段からは珍しく歯切れが悪い。だが急かすことなく続きをじっと待つ沙耶に、ルシファーは観念したように顔を背けて小さく答えた。
「わからん、ってのが今の答えだ」
「わからん」
思いがけない回答に虚を突かれ、沙耶はただオウム返す。
「今まで俺は地界に来たことはない。だがここは魔界と比べて新興の世界だ。大したやつなんかいねえはずだし、ましてやこの俺より……」
そこまで言いかけてルシファーは言葉を切った。だが沙耶はそれに続く言葉は、言われずともわかった気がした。
“こいつでも戸惑うことってあるんだな……”
珍しいものを見たような心地だった。
言い淀むルシファーの様子から、本当にルシファーにもわからない何かがあったのだ、ということだけはわかった。この言い方からして何か強大な、未知のものがあったのだろう。沙耶とてその正体が気にならないわけがない。
だが、聞ききたい答えが聞けたわけではないが、この様子からしてきっとこれ以上問い詰めても困らせるだけなのだろう。ルシファーでもわからない何かがあった、ということはわかったのだ。
沙耶は「まあ、じゃあもういいか」と、どこか納得し、話を継ぐようになんの気なしにぽつりと独りごちた。
「そう……でもあの女の人の声、そんな怖い感じしなかったんだけどな」
「は? ……声?」
沙耶の言葉にはっと動きを止めるルシファー。
のほほんとした様子の沙耶に、鬼気迫る剣幕でルシファーが顔を覗き込んだ。
「なんっでそんなこと、早く言わない!?」
「え、何、何が……? あ、声のこと? いや、だって……言える空気じゃなかったし」
「つーか声まで聞いて、あの感覚に気付いてなかったのか?」
「感覚? 感覚って何……?」
突如声を荒らげたルシファーに驚きながら、沙耶は首を傾げる。ルシファーがそこまで焦る理由が心底わかっていないのだろう。ルシファーが頭を抱えた。
「お前……最近そこらの奴らより魔素量増えてきたと思っていたが、そういう感覚的な……危機感か? とにかくその、感知系がほんとポンコツだな」
「ポンコツは言い過ぎじゃないですか」
不服そうに口を尖らせる沙耶に、ルシファーは溜め息をつく。
「いいか。昨日のお前は、いわば目の前に銃口を突きつけられているにも関わらず、へらへら笑ってるような状態だったんだぞ」
「ええ、私ヤバい奴じゃん! いや、へらへらしてないし!」
声を上げる沙耶。ルシファーが沙耶の額を指で軽く弾いた。
「それくらいお前の察知能力は生物として終わってるってことだ。ほっといたら即死ぬんじゃねえか、お前」
「ええー。でもでも、前ルシファーが近付いてきてるの気付いたじゃん。ほら、ルシファーと合流した時」
「そりゃ俺の気配だからだろうが。俺はお前の隷獣だぞ。気付いて当然なんだよ」
呆れるルシファーに、沙耶はまだどこか腑に落ちないようだ。
「……ったく、あの気配に気付いてなかったのはあの周囲一体で、雑魚魔物含めておそらくお前くらいだ。魔物共が逃げ出す気配を感じたからな。つまりお前はそこらの雑魚キノコ魔物以下ってことだ」
「なっ!? そ、そんなあ……。私「はっ、殺気を感じる!」みたいなの言ってみたかったんだけど」
「はっ、百年早え。キノコよりましになってからほざけ」
「ぬえー!」
突きつけられた現実に、情けない鳴き声を上げる沙耶。それを見て思わず吹き出したルシファーは、そのまま愉快そうに笑い始めた。口を尖らせる沙耶だったが、ルシファーがいつもの調子に戻ったことに、どこか安心したようだった。




