101
既に日が落ち始めていたことに加え、背の高い木々に周囲を囲まれていることもあり、辺りは随分と薄暗くなっていた。木々は風に揺れ、魔物なのか動物なのか、遠くで生き物が動く音もする。ざわざわとさざめく木立に注意が向いていたが、沙耶はふと視線を池へと向けた。濁っているのか、澄んでいるのか確認したくとも、暗くて池の水の色がわからない。
生き物の気配を感じさせない程に静謐なその池は、光を全て吸い込んでしまったかのように深い闇をたたえ、見続けていると自分まで吸い込まれてしまうのではないかと、そう思わせる雰囲気を醸し出していた。
沙耶が腰を屈めて池の中を覗き込もうとすると、ぐいと首根っこを掴まれた。
「馬鹿、落ちるぞ」
「むえ。お、落ちないよ」
そう言いつつも、沙耶は足早に池の近くから離れた。
池から離れた沙耶はユキを鞄から下ろし、火を焚く為、薪となる枝を探し始めた。ルシファーはうんと背を伸ばし、自分の仕事は終わったのだと木にもたれるようにして座り込んでいる。
実際移動は殆どルシファーに空を運んでもらっている為、沙耶にも不満はなかったし、ああして気を抜いているようにも見えてもルシファーは沙耶に魔物が近付けばすぐに対処してくれていた。
そう、これはいつもと何ら変わらない、ただの日常の光景だったのだ。
沙耶が数本枝を拾った頃、ユキも口いっぱいに枝を咥えて駆け寄ってきた。沙耶はそれに気がつくと、口元を緩めてしゃがみ込み、ユキの頭を撫でて枝を受け取る。野営するにはもう少し枝が必要だ。燃やすためには乾いた枝である必要があるので、意外とすんなりとは見つからない。
なびいた髪を耳にかけ、立ち上がった時だった。
風が止んだ。
そよいでいた梢が動きを止め、音が消えた。
沙耶が違和感に顔を上げた。
――人の子がおる
不意に耳元で静かに声が響いた。
びくりと体を震わせる。ルシファーの声ではない。知らない女の声だ。
「――えっ」
「沙耶!」
驚きに固まる沙耶を、飛び込んできたルシファーが強引に抱き寄せた。突然ルシファーの体に押し付けられるように引っ張られた沙耶は目を瞬かせる。抱き寄せるルシファーから今までに感じたことのないような緊張と警戒の色が伝わってきた。ユキは二人の足元で尾を立て、歯を剥き出しにして唸り声を上げている。
沙耶は息を呑んだ。
ルシファーは沙耶を両腕で覆うようにして、その場から動かず周囲に視線を走らせる。
“何だ、この気配は”
尋常ならざる気配が周囲一体を支配していた。強大で重い、この地界に来てから感じたことのない程の圧だ。肌が粟立つような底気味の悪さ。息が詰まりそうになる。
“この俺が……?”
ルシファーは己の力は絶対的であると自負があった。実際にこの突出した力でこれまで魔界に君臨してきた。
だが今感じている圧倒的な気配。
これは己と同等、ともすれば――
「ルシファー……?」
沙耶のか細い声でルシファーははっとした。腕の内から沙耶が不安そうな目で見上げていた。だがその瞳はどちらかといえば困惑の色が強い。ルシファーやユキの様子から只事ではないと伝わってはいるものの、何故そこまで警戒するのはわかっていない、そんな様子だった。
だが今ルシファーは律儀にそれに答える余裕はない。
何かが、いる。
その時気配が消えた。
つい今しがたまで息苦しくさえ感じる程濃密で重たい気配が満ち満ちていたというのに、それが突如として霧散したのだ。まるで何事もなかったかのように。
風が吹き、葉擦れの音が戻ってきた。
沙耶も空気が変わったことを感じ取ったのだろう、肩の力が抜けている。ユキは緊張が溶けて、ぺたりと座り込んでいる。ルシファーは大きく息を吐き出した。
「はー……。とりあえずここから離れるぞ」
「う、うん」
沙耶はルシファーに手を伸ばした。
ルシファーたちは先程の池の畔から三十分程飛んだ川辺に降り立った。この辺りは山地のため開けた場所がなかなか見つからず、その上日はとっくに沈んでいたので地形が殆ど見えなかった。やっと水の流れが穏やかな川岸を見つけた時には、飛び立った場所からどの方角へ進んだのかわからなくなってしまっていた。
やはり夜の移動は不確実で危険なのだ。だがそれでもルシファーは移動する必要があったのだ。
今まで見たことのないルシファーの対応に、沙耶は何か前代未聞のことが起こったのだと理解した。
だが実のところ、沙耶はそれを実感しきれないでいた。ルシファーはかなり警戒をしているが、沙耶にはあの時聞こえた女の声が、不思議と悪いものには感じられなかったのだ。
その日は既に日も落ちていたため、火を焚かず、調理なしでつまめるものを少し腹に入れて形だけの食事をとった。
その食事の時も、寝袋を体に巻き付けるようにして眠る時も、ルシファーはぴたりと沙耶の傍について離れなかった。それはユキも同様で、圭吾たちから離れて以降、十分な量の食料を沙耶が持ち歩けなくなってからは、食事が足りないと思った時はふらりとどこかに足しに行っているようなのだが、この日はどこにも行かず、沙耶が渡そうとした干し肉も何も口にすることなく沙耶の足元に張り付いていた。
悪いものは感じずとも、そんな彼らの雰囲気に当てられて沙耶も緊張しだしていた。
だが根強く残る疲れのせいか、生来の図太さからなのか、横になるとあっさりと眠れてしまうのだった。




