悪魔のなくしもの 鶯
使用お題:「悪魔」「鞠」「鑑賞用の魔法」
ぽーん、ぽーんと鞠が空を飛ぶ。
「そっち行った!」
「ちょっと、飛ばしすぎ!」
明るい声を立てながら、子供たちがかわるがわる鞠を空へ蹴り上げていた。青紫色の空を背景に弧を描く黄色い鞠が、レナの足元に降ってくる。
「えいっ!……あ……!」
落ちてきた鞠を思い切り蹴り上げて、その軌道を追ったレナが顔を青くする。思ったよりも力が入ってしまったのか、一際高く上がった鞠は、空に浮かぶ赤い雲の間をすり抜けて、どこまでも遠くに飛んでいく。
大変だ。あの鞠をなくしたら怒られる。
子供たちは慌てて鞠の行方を追いかけた。レナもはっと我に返ってその後に続く。上を見上げながら走っていたら、石につまずいて転んでしまった。急いで立ち上がり、同じことを繰り返さないよう足先を少しだけ浮かせてから走り出した。
「あ……!まずい!!」
先頭を走っていたカイが大声を上げる。その視線の先で、鞠は何かに引き寄せられるように、紫色の空にぽっかりと開いた青い穴に吸い込まれていった。
「どうしよう……」
「どうしようもないよ、地上に勝手に行くわけにはいかないし」
「だよね。あーあ、せっかくいいところだったのに」
意気消沈する子供たちを見ながら、レナは冷たい汗が背中を流れ落ちていくのを感じた。
あれは、レナが持ってきた鞠だ。しかも、家の蔵に大事に飾ってあったものを、無断で持ち出したのである。バレるのが怖かったので、みんなには「親に内緒で持ってきた大事なもの」としか伝えていないが、これが露呈したらレナは大目玉どころでは済まない。「この馬鹿者が!それでも伝統あるカーナ家の悪魔か!」と烈火のごとく怒る父の顔が目に浮かぶようだ。
何としても、あの鞠を見つけなければ。
意を決し、レナはそろりそろりとみんなの輪から抜け出し、とある場所に向かった。
レナが向かったのは、家から少し歩いたところにある十字路だ。この場所は、昔は地上、つまり人間界との行き来に使われていたという。今でも道端にぽつりと佇む井戸、それが地上への抜け道になっているという話を、レナは父親から聞いたことがあった。
少しだけ踵を浮かせて、井戸の中をのぞき込む。水が枯れた井戸の中はどこまでも真っ暗だった。両腕に思い切り力をこめる。ふわりと浮いた小さな身体が、重い頭のある方へと傾いた。声にならない悲鳴を上げながら、レナの身体は真っ逆さまに井戸に落ちていく。
落ちていく。
落ちていく。
「……?」
ぎゅっと身体を縮こまらせていたレナは、いつまでたっても予想していた衝撃が来ないことに気が付くと、恐る恐る目を開いた。
目の前は、どこまでも青かった。
その青の眩さに、レナは思わず固く目を瞑った。何かあっても目を守れるように、両手を目の前にかざしながら、再度ゆっくりと目を開ける。
目の前には、眩いばかりの青がどこまでも続いている。ところどころに白い何かが浮かんでいるその青い場所にいるのは、レナ一人のようだった。
「ここ……地上?」
辺りを見回すが、生き物らしき姿は見えない。どうしたものかと思っていると、急に足元が空白になった。
「きゃああ!」
「うわっ!」
今度の落下は短かった。硬い地面に身体をしこたま打ち付けて、レナは涙目になる。それから、自分以外の声が聞こえたような気がして、後ろを振り返った。
そこにいたのは、幼い少年だった。
年の頃はレナと同じくらいだろうか。ぶかぶかというか、だるだるというか、見慣れない服に身を包んだ少年が、茫然とレナを見つめていた。
「……あ、あの……」
「ひいっ!」
レナが声をかけると、少年は引き攣れたような悲鳴を上げて、一歩後ろへと下がる。その手が、見覚えのある黄色を抱えているのを、レナの目がとらえた。
「それ!」
「ひいっ……ま、魔物が……!!」
レナに指さされ、少年はいよいよ恐怖に耐えかねたのだろう、くるりと踵を返すと走り去ろうとする。レナは慌てて飛び上がると、少年の前を通せんぼするように仁王立ちになった。
「待って、待ってってば!」
「うわあああ、だ、誰か……!」
「話を聞いてってば!」
逃げようとする少年が面倒になって、レナは影を伸ばして彼を拘束する。
「うわ、わ、なんだ、なんだこれ……!誰か!」
「取って食いやしないから!ちょっと話を聞いてちょうだい……って、言っても無駄みたいね」
影にぐるぐる巻きにされ、少年は恐慌状態に陥っているようだ。レナは暫く考えたあと、自分の来ている服を少年のものと同じにして、頭から生えている日本の小さい角を消してみた。その様子を目の当たりにした少年が、ぴたりと動きを止める。
「い、いまの……え……?」
とりあえず抵抗をやめた少年に、こんなちょっとした魔法も役に立つものだ、とレナは意外に思った。こんなもの、ただの鑑賞用のちゃちな魔法に過ぎないと思っていたのに。
「あのね」
「ひっ!」
少しは警戒が解けたかと思ったが、レナが声をかけた瞬間、少年の身体が恐怖に強張る。
「私、鞠を探しているのだけど」
「ごめんなさいごめんなさい食べないで……ん?鞠……?」
目を閉じて、影の拘束の許す限り頭を下げた少年が、聞こえた意外な言葉に首を傾げた。
「そう、鞠。知らない?」
レナは、にこりと笑いを顔に貼り付ける。
「……どんな、鞠で……?」
「大きさはこれくらい。黄色くて、白い花の刺繍が入ってるのよ」
少年は、じっと自分の手の中にある鞠に目を遣った。それから数秒の間考える様子を見せると、弱弱しくその鞠をレナに差し出した。
「……どうぞ……」
「ありがとう」
レナは笑顔で鞠を受け取ると、少年の拘束を解く。それから、きょろきょろと辺りを見回した。少年は腰が抜けてしまったのか、解放されたその場に座り込んでいる。
「ねえ」
「はいっ!」
「井戸って、どこかにある?」
唐突な問いに、少年は目を丸くしながら右へ指をさす。一刻も早く戻らなければと、レナは鞠を抱えたまま空へと飛びあがった。
空へと消えていった不思議なものの影を見送って、少年は大きく息を吐きだした。いきなり空から降ってきて襲い掛かってくるなんて、まさに魔物か悪魔かといった不可思議な生き物だった。
「母様の鞠……」
手放してしまった鞠を惜しんで、空の手を握ったり開いたりする。折角母が作ってくれたものだったのに。ずっと大事に使ってきて、もうあちこちボロボロだったけれど、まだ使えたのに。
それでも。
「……仕方ない……」
命は惜しい。
もうひとつため息をつくと、少年は震える手を地面について、よいせと身体を起こす。
「……今日は、帰ろう」
鞠がなくては、蹴鞠の会もできない。後ですっぽかしたと言われるのは明白だったが、とてもそんな気分にはなれなかった。
とぼとぼと家路につく少年の背を見送るものは、誰もいなかった。