大輪の花
アランはただ茫然と見ていた。
──透き通る青空──
──宙に舞うアイリス・ユークラリス──
アランと目があった。
蝶を捕まえようとした両手をアランに差し出し、いつものあどけない顔で微笑んだ。
ただの剥き出しの純粋な愛情を煮詰めた、アランにだけむける笑顔。
どこまでもどこまでも優しいバイオレットな瞳。
そしてアランに何かを語りかけようと、小さなくちびるを開いた。直ぐにその顔は見えなくなり、ピンクブロンドの髪が青空に広がる。
少女は頭を下にして落下していく
ほんの一瞬のはずなのに、アランにはゆっくりと落ちるアイリスが見えた。
広がっていたピンクブロンドは陽光に煌めきながら、天に真っ直ぐ伸びた。
アランに差し出した両手は受け身を取ることもせず、虚空を自然に泳いでいる。
緑の芝生に階段から続く石畳。
ゴンッ
鈍い音
白い石畳にピンクブロンドの髪うが円を描くように広がった。
───それはまるで大輪の花───
花の中心には、ピンクのドレス姿のアイリスが背中をむけていた。頭頂を石畳につけ、足は揃って天に真っ直ぐ伸びていた。
両手が自由を失い地面に投げ出された。
ドレスの裾が捲れて、白いタイツのふくらはぎが現れる。
その足が此方に倒れてきた。
音もなくゆっくりと……。
アイリスは白とピンクの斑な石畳に、仰向けになった。
アランの周りで悲鳴や叫び声がする。
侍女リリが少女に駆け付ける
侍女見習いララが階段から転げ落ちる
白い日傘が、開いたままコロンと転がる
伯爵夫妻が駆け出す
口々に名前を呼びながら、アイリスのまわりに集う。
たった一人アランが取り残され、茫然とその光景を眺めていた。
自分も何か叫んだような気がする。
今は現実感がなく、ただただ眼球に写し出される光景を見ていた。
リリはアイリスの胸に耳をつけ、それから口元に耳を近付ける。
青ざめた顔をあげ
「大変です!お嬢様が!お嬢様が!息をしておりません!!!」
その叫びに短い悲鳴をあげ伯爵夫人が気を失い倒れる。支えるユークラリス伯爵も夫人を抱えたまま、その場にへたりこむ。
リリもぺたっと座ったまま、放心したようにアイリスの顔を見つめている。
ララが立ち上がって慌てて屋敷の方へ駆けて行く。
助けを呼びに行ったのだろう。
────静寂────
アランはぼーっとしていた。
『息をしてない?』
心のなかで呟く
『死んだのか?』
願ったではないか
『この世から消えるのか?』
願ったではないか
『アイリスがこの世界からいなくなるのか?』
願ったではないか
毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日
くる日もくる日もくる日もくる日もくる日もくる日も
消えろ!
死んでくれ!
消えてくれ!
頼むから僕の世界から消えてくれ!
このアイリス・ユークラリスという存在と出会ってから、はじめて『消えてくれ!』と願ってから、一日も欠かさずそう心の中で願い続けたではないか?
もう呪いだよ
良かったね
嬉しいだろう?
叫んだらどうだ?
『僕は自由だ!』って
歓喜だろ!
歌えよ!
祝えよ!
叶ったんだよ!
悲願だったのだろ?
『やっと幸せになれた!』って
ずっと不幸だったのだろう?
両親に捨てられて
優秀だからって
伯爵夫妻は優しくしてくれた?
でも、夫妻の愛情はアイリスに向いていたよね?
不幸なんだろう?
この出来損ないのアイリスを押しつけられて!
いつもしたくないお守りをさせられて
馬鹿な女が一生僕に纏わりつくかもしれないって
恐れていたじゃないか?
安心していいよ
もう大丈夫
君は自由だ
アイリスは消えるんだ
誰も君の邪魔はしない
『僕は誰にも愛されていない』
両親の愛は兄に
伯爵夫妻も
使用人も
誰もアランを向いてないよね
アイリスを愛していたよね
使用人なんて
リリとララしか名前覚えて貰えないのに
みんな愛の眼差しを
アイリスに向けていたよね?
お嬢様!お嬢様!お嬢様!お嬢様!って
羨ましかったのだろう?
アイリスは消えるんだ
もしかしたらその愛情が
君に向くかも知れないよ?
一人占めだ
嬉しいだろう?
歓喜だろう?
愛に餓えていたのだろう?
『誰か僕を見て!本当の僕をみて!次期伯爵ではないただの僕、アランを見て!』って
誰も君をみてくれなかったのか?
『アイリス』
誰も次期伯爵ではない、本当のアランを見てくれなかったのか?
『アイリス』
誰も君の名前を呼んでくれなかったのか?
『アイリス』
本当に君は孤独だったのか?
『アイリス』
君の側には誰もいなかったのか?
『アイリス』
誰一人君を愛してくれなかったのか?
『アイリス』
世界で一番好きって、毎日言ってくれたのは誰?
『アイリスアイリスアイリス』
本当に失ってもいいのか?
消えてしまっていいのか?
死んでしまっていいのか?
この世界から消えてしまうのが本当の望みか?
ならこのまま何もせず立っていればいい
アイリスは棺に入れられて
教会で祝福されて
皆に泣かれて
天に召されて
土に埋められて
君の人生から綺麗さっぱり退場する
それが望みなら、このまま立っていればいい
でも知っているのだろう?
まだ希望はあるって
異国の本に書いてあったじゃないか?
覚えているだろう?
ほんの3日前
馬車に揺られアイリスを無視して
読んだ本に載っていたよね
学園図書館で借りたあの分厚い医学書
まだ希望はあるよ
ほんの僅かだけど
希望は残っているよ
後は君次第だ
もし君がこのまま動かなければ
君の半生をかけた願いは叶うよ
間違いなくね
でもそれは
上部だけの不幸に浸っていた君の気持ち
君は何も見ていなかった
君はなにも見ようとしていなかった
君の本当の望みは何?
今の君の本当の願いは何?
君の魂の奥底から溢れ出るこの想いはなに?
もう時間がない
諦めるのか?
後悔しないのか?
さぁ、地面に生えているその足を引っこ抜いて
その一歩を踏み出すんだ!
もう時間がない
本当に時間がない
何処に行くのかって?
決まっているじゃないか!
もう気付いてしまったのだろう?
さあ行こう!
君の大切な人
君を世界で一番愛し
君が世界で一番愛している
少女の元へ……。