執事マードックの楽しみ
フォラリアス郊外のユークラリス伯爵別邸。
ここで3日間滞在しいよいよ白薔薇学園へいくこととなる。
初日は昼前に到着し多くの使用人たちに出迎えられた。
本宅使用人たちの長である執事マードックさんが、歓迎の挨拶をし、次期伯爵たるアランが返礼と、皆を労う。
アイリスは一応空気を読んで自重していたが、挨拶が終わるとアリスが出張ってきて
「みんなアリスだよ!
みんなの顔覚えたいから、後で会いにゆくね!
でも、お腹空いたから早くゴハンたべたい!」
とツカツカ食堂へと歩いていく。
その後ろをリリとララがてくてく付いていく。
マードックはアランの元へ行き
「お食事の準備はできております。
アラン様もご一緒なさいますか?」
「ああ、そうする。
ただアイリスの食事は量はさほど要らないが、フルコースのようにしてもらえるか?
いま、テーブルマナーを学んでいて学園に通う前に少しでも形にしたい。それと席は隣にしてくれ。
事前に連絡せず急ですまない。
頼めるだろうか?」
「はいおまかせ下さい。そのように手配致します」
アランは食堂の方へと消えた。
それを見送ったマードックは、副執事に先程のアランの指示を伝え食堂に送り、自身はその場にいる使用人たちに的確な指示を与えた。
年齢は40歳ほど。茶髪をオールバックに撫で付け、丸眼鏡をかけている。
王都別邸は本邸よりも二周りほど小さいが、贅を凝らしている。
王族や公爵、侯爵、他の伯爵家の方々をお招きする事も多いためである。社交に使われるのはこの別邸がほとんどだ。
マードックはそこの差配をまかされている。
☆☆☆
『それにしても、見違えるようになられた』
わたくしマードックは、思わず唸りました。
アイリス様のことはすでに聞き及んでいましたので、予想の範囲内でありましたが、驚いたのはアラン様の方でごさいます。
今までは次期ユークラリス伯爵の肩書きをお持ちでしたが、どこか部外者の感じがありました。余り自分以外に興味を示さなかったご様子でした。
いつもの挨拶も『ああ、ご苦労様』みたいで呆気ないものでごさいましたが、今回のご挨拶は皆に気配りし留守の感謝を伯爵様に代わり見事にしてのけました。
言葉遣いも厚みを増したようで、人間が一回りも二周りも大きくなり見違えるようでした。
─男子、三日会わざれば刮目して見よ─
たった一月で何がそう変えたのでしょうか?
それがアイリスは様であるのは予想できます。
今見た限りでは、アイリス様が落ち着いたくらいであまり変化がないようですが……。
今回の滞在は、わたくしマードックにとって、とても楽しみなものとなりました。
食堂でアラン様とアイリス様は隣同士に並び、テーブルマナー講座をしております。
テーブルマナーは日々の積み重ねが大切でございます。
アイリス様はまだぎこちなく、ナイフとフォークを扱っておいでです。
ただ、学ぼう、吸収しようという思いは、見ているこちらにも伝わってく来ます。
真剣な眼差しでアラン様の手元口元を見つめ、見よう見まねでお食事をしておいでです。
少し猫背になられるクセが見受けられ、アラン様はその度に注意し、またうまくいけば褒めておられます。
褒められるとアイリス様ははにかんだ笑顔を見せられ、アラン様はその笑顔がご覧になりたいが為に教えているのではないか?と勘繰るほどに、素敵で可愛らしい笑顔でした。
こうしてみると、姉弟ではなく、初々しい恋人たちのようにみえます。
それからアラン様は付き人二人と共に執務室で何やら勉強をしだし、わたくしはアイリス様を連れてこの王都別邸の使用人たちを紹介して屋敷をまわりました。
今日と明日、二回に分けて案内するつもりでございます。
あまり名前を覚えるのが苦手らしくて、ファーストネームだけをお教え致しました。
そうそう先程リリが来て、気になることを告げました
「お嬢様は以前は人のお顔が判りませんでした。この頃は顔が判るのが嬉しいようで、一生懸命人のお顔とお名前を覚えようと致しております。
ただどちらのアイリス様もあまり覚えるのが得意ではないようでして、よく間違えます。
わざとではないので、その辺りのフォローもお願いします」
「どちらのアイリス様も、とは?」
リリは慌てたように首を振り
「いいえ、何でもありません」
と否定したが『しまった』という風にちょっと舌を出したのを見ました。
確かに注意深く見れば、まるでふたりのアイリス様がおられるように、あからさまな違いがございます。
ただ、一番身近におられる伯爵様やアラン様が何もおっしゃらない以上、お仕えする身としてあれこれ詮索するつもりはございません。
それから御夕食をとられました。
アイリス様はアラン様の指南を受けずに御食事をなさっておりましたが、テーブルマナーとしてはまだまだ及第点には至りません。
まだ、びくびくしておいでです。
ただ、一生懸命なお姿に必ず物に出来ると、確信いたすのでございます。
それからちょっと不思議な事がございました。
御夕食後、アイリス様がわたくしの元にこられて
「あしたも案内よろしくね。丸いメガネのマードックさん。でも、わたしあんまり覚えられないから、ひしょに教えて貰うの。でもひしょも半分も判らないの。
名前覚えるのって、むつかしいね」
「ひしょとは秘書でこざいますか?
はて、どの方のことをおっしゃっているのでしょう?」
「ん?ひしょはアイリスだよ。アイリスがアリスのひしょをしてるの」
そう言って笑って駆けて行かれました。
それから間もなく、またアイリス様と廊下ですれ違ったのです。
アイリス様に呼び止められて
「マードックさん。今日は案内有り難うございました。でも、あまり覚えられませんでした。
それで……お願いがあるのですが……」
「何なりとお申し付け下さい」
「使用人のお名前とお役目を、何か紙にでも書いて記入して頂きたいのです。
少しでも予習すれば、明日皆さんのお顔とお名前を全員覚えられるかも知れませんから」
少し不安な表情で、わたくしを上目遣いで見られました
「畏まりました。直ぐにでもご用意して、お部屋にお持ち致します。わたくし以外の者が行きますが、宜しいでしょうか?」
「はい、有り難うございます。
これで少しは秘書らしくなります」
はにかんだ笑顔をわたくしにも、お見せになられました
「それはようございました」
楽しそうに行く後ろ姿をお見送りしながら
「どちらのアイリス様も……」
と思わず口にしてしまいました。
頭を激しく強打したらしいので、その後遺症でしょうか?口調も仕草も雰囲気もあからさまに違うアイリス様がいらっしゃいます。何か別の人格が生まれたのでございましょうか?
けれど何故かどちらも、アイリス様で間違いない気がしてなりません。
わたくしと致しましては、ただ誠心誠意お仕えし真心を尽くすのみ。
次の日、二日目になりました。
朝食後はアイリス様に使用人のお顔合わせをいたしました。
予習の甲斐もあったのでしょう。昨日よりは、使用人の顔と名前が一致しておりました。
昼食はアラン様とテーブルマナー講座。
午後はそれぞれ自由に過ごされて、御夕食。
今夜が本屋敷の滞在最後のディナーですから、アラン様とアイリス様の好物を取り揃えました。
そして3日目ご出発の日
アラン様はそれはそれは見事なご挨拶をなされました。
アイリス様もアラン様の傍らに寄り添い、見守っておいででした。
最後にアイリス様が
「みんなぁ~元気でぇ!
また会おうねぇ~!」
と両手をちぎれんばかりに振っておいででした。
わたくしを初め、使用人一同皆、元気をいただきました。
そして馬車にのり、白薔薇学園へと向かわれました。
わたくしはアラン様とアイリス様がどのように成長され、どのようにお二人が進展なさるのか、楽しみでございます。
そうそう忘れてはならない出来事がひとつございました。
昨日の夕方のことです。
リリとララと廊下ですれ違いました。
いつもは誰か一人アイリス様に付いているので、ふたり連れだって歩いているのが珍しく尋ねました
「リリ、ララ。アイリス様はどうなされました?」
その問いにリリとララは、アイリス様はアラン様とふたりでお庭を散策しているとのこと。
白薔薇学園ではお二人で行動することが多く、その予行練習もかねておられるようです。
わたくしはふと気になり、お庭に向かいました。
夕日に照らされて、お二人は花々溢れる庭園のベンチで座っておいででした。
ふたりのお姿は逆光で、こちらからはシルエットしか見えません。
わたくしはお二人を邪魔せぬよう、執事スキル
〈辺りの風景と同化して空気になる〉
を発動致しました。
本来ならばその場を立ち去ればよいのかもしれませんが、そのなんともいえぬお二人の仲睦まじさに見守ることを選択致しました。
とても気になったのでございます。
お二人はベンチに腰掛けたまま何やら話込んでいました。
以前のアイリス様なら例えアラン様であっても、あのようにお話しをお聞きになる忍耐は持ち合わせておりません。きっと新たな人格のアイリス様でございましょう。
ふと、アイリス様は俯きました。
それからスッと顎を少し上に上げました。
それはシルエットしか見えませんが、わたくしの脳裏には瞳を閉じうっとりとした表情で誘っている、アイリス様のお顔がありありと見えました。
案の定、その誘いに乗せられてアラン様がアイリス様と口づけを交わしました。
長い長い長い口づけです。
それはそれは……わたくしが疾うの昔に置き忘れた、甘くて淡い、胸を焦がすような『恋』をしていたあの想いを甦らせてくれました。
そしてなぜアラン様があのように急激に成長成されたのか、得心致しました。
格言がごさいます
男は愛する者を得れば山をも動かし
男は愛されることを知らば海をも飲み干す
まあ太古の神が愛する者に会うために、山を動かし、海をも飲み干したというつまらない話でございますが、何故かわたくしはこの話を思い出します。
男は愛する者を得れば、その者を守らんと大きく成長します。愛されることを知れば、さらに強くなれるものでごさいます。
ウンウン……わたしは頷きながら、その場を去りました。
どうぞアラン様、アイリス様、この珠玉のような貴重な─ひととき─を大切になさってください。
愛を育むことは人にとって何より大切なものでございます。
わたくしも久しぶりに妻に会いたくなりました。
尻に敷かれっぱなしのわたくしですが、昔話にでも花を咲かせたくなりました。
今度帰宅したら、秘蔵のワインでもあけましょうか。




