じぃの涙
アリスはデザートを4人分平らげ、大満足な風情だ。
家族も使用人も皆、そんなアイリスの姿を微笑ましく見守っている。
ユークラリス伯は老執事を呼ぶ
「じぃ、軽食でいい用意できるか?それから、アイリスは自室で少し休んだ方がいいだろう。
そうだな、一時間後『胡蝶の間』で茶会をしたい。久しぶりに家族水入らずの時を過ごしたいからな。もしアイリスの体調が悪いようなら、無理に参加しなくても良い。頼めるか?」
「おまかせ下さい。軽食はもう準備出来ております。
ここでお食事なさいますか?
お茶会の手配は、アイリス様共々おまかせ下さい」
「食事はここでいい。後は任せた」
「はっ、万事おまかせ下さい」
そんなやり取りの最中、アイリスは二人の元へ近づいて行く
「じぃ?じぃなの?」
アリスは執事を見上げる。
執事は身長180㎝もある。
「はい。じぃでございますよ。お嬢様」
「じぃは、じぃって言うの?」
「じぃは、アーノルド・ジェイソグと申します」
「あーのるう?じぇいそー?」
「じぃを呼ぶ時は、じぃで結構でございますよ」
「じぃはじぃなのね?」
「はい。じぃはじぃでございます」
「ねぇじぃ。お顔さわってもいい?」
アリスは手を伸ばす
執事は屈んでアイリスと目をあわせる
「どうぞお嬢様のお好きなように」
「どうしてこんなにお顔にいっぱい線があるの?」
アリスは不思議そうに、顔を撫でる
「これはシワでございますよお嬢様。
年を重ねると誰にも出来るものでございます。
じぃは年寄りでございますから」
「じぃはおじいちゃんなの?」
伯爵が笑いながら
「じぃはな、父さんがまだ生まれもしないずっと前から、ユークラリス伯爵家に使えているのだ。
物心つく頃から執事として伯爵家の差配をまかされている」
「もう老骨ですから、できれば後身にまかせて楽隠居出来ればと願っております。
旦那様が一言そうお告げくだされば、明日にでもおいとま致しますのに」
「そういってくれるなじぃよ。まだまだ我が伯爵家にお前が必要だ。王都の別邸の執事マードックもじぃが目の黒いうちはまだまだ隠居させるなとうるさくてな、漬物石みたいなものでそこに有るだけで役目を果たしているといって、大層尊敬している。
私もそうだ。本邸にいるだけで、安心感が違う。
まだまだ現役で居てもらわなければな」
「そう言って頂ければ、執事冥利に尽きるというもの。
白内障になるまでは、尽くさせていただきます」
「ハハハ確かに。だが片目だけでも黒いうちは、相談役とでもなんとでも理由をくっ付けて側に居てもらうから覚悟しておけ。じぃよ」
「勿体無きお言葉。このアーノルド辞めるその時まで、粉骨砕身お役目果たさせていただきます」
伯爵と老執事は互いに視線を通わせ、声にならない笑いをあげた。
アリスはそんな老人の両頬を両手でつつみ
「じぃ」
「なんでしょう、お嬢様」
「ずっとね、わかんなっかたの」
「わからなっかのですか?何がでしょう?」
「じぃの顔が……」
執事は絶句した。
伯爵が堪らず口を挟む
「アイリス。父さんと母様の顔はわかっていたよな?」
「うん。父様と母様とアランは見えてたよ。
でもね。リリもララもみんなみんな顔がわかんなかったの」
「それは……顔が見えるけど、覚えられないってことだろう?
皆にはそう言っていたが……」
「違うよ。みんな目も鼻も口も何も無い、のっぺらぼうだったの。
色は分かるの。
緑のがリリ、青いのがララってわっかたよ。
でも、顔はないの……なっかたの」
「なんてことだ……」
伯爵はシェレイラに目線を向ける。
母様は目を伏せて首をふる。
アランは神妙な顔してる
─てかあんた知ってたよね
「でもね、今日ね、みんなの顔わかるの。
じぃの顔もわかるの。
わたしね、今日、初めてじぃの顔見たの。
ずっとね。
ずっとね。
アリスがちっちゃい頃からずっとね。
じぃのこと知ってたのに……誰だか分かんなかったの。
だからね。
じぃの顔見れてすごくすんごく嬉しいの。
もっともっと見ていたの。
だからね……」
「……お嬢様」
アリスは真剣な面持ちでじぃの目を見据える
「じぃには、ずっとずっと居てほしいの。
おめめが黒くなくなっても、居てほしいの。
わたしの……アリスの赤ちゃんできても、じぃはじぃで居てほしいの。
赤ちゃんのじぃでいてほしいの」
「お……嬢様……」
老執事の頬を涙が伝った。
疾うに枯れ果てたはずの涙。
アイリスの言葉だけに涙したわけではない、その想いが胸を穿ったのだ。
旦那様だけではない。
次代のアイリス様そしてそのまた次代の、まだ名もなく存在もせぬ者に必要だとされる。
その一点だけでも、この老骨の人生が全肯定されたような気がした
「……もっ……勿体無き……お言葉」
それだけ絞り出すのがやっとだった。
アリスはじぃのその言葉を吐ききる前に、そっと頭にハグした。
「約束してじぃ。ずっとずっとアイリのじぃで居てくれるって」
白髪と黒髪が混ざり灰色となった頭を、その細い腕でギュっと抱きしめた。
「初めて見たじぃはとっても優しい目をしてたよ。
アイリの事、大好きだって目をしてたよ。
わたしも好き。じぃが大好き。
だから……ずっと……じぃで居てくれる?」
アリスはじぃと向きあう。
執事の涙はもう止んでいたが、瞳は潤んだまま。
涙にいつまでも溺れているわけにはいかない
それも務めのうちだから……
年月を重ね刻まれたシワは、伯爵家に誠実に忠実に仕えた日々を表していた。
そのシワの目元と口元が、更に深く刻まれた
「もちろんでございますとも。
これからもじぃはじぃでございますよ」
アリスも嬉しそうに破顔一笑した。
それから少しモジモジして
「じぃにひとつお願いがあるの?」
「何でございましょう」
「アイリ。顔分かるようになったから、お家のみんなの顔が見たいの。
案内してくれる?」
老執事は目線を斜め上に向ける。
視線の交わったユークラリス伯は頷く
「喜んでご案内致します。あまりいっぺんに回るとお疲れでしょうから、三回に分けてこのじぃと共に行きましょう」
「ありがとじぃ。その……ね。アリスあまり長い名前その……覚えられないの……。
じぃのアーノルゥジィーとか難しくて……。
みんなリリとかララとかアイリスとか短い名前だけだといいのに」
「あの……姉様」
「なぁに、アラン」
弟の顔を見つめる
「姉様。もしかして、姉様の名前……アイリスだけだとおもっていますか?」
「当たり前でしょ。アイリスはアイリスよ。
アランもただのアランでしょ?」
さも当たり前な風に答える
「あの……僕の名前はアラン・ユークラリスです」
「アラン・ゆー……くりおね?」
「僕はクリオネじゃないですけど……姉様の名前も
アイリス・ユークラリスですよ」
「うそ!」
『うそ!』
ってあーた。
楓の記憶あんだから
乙女ゲームのヒロイン
アイリス・ユークラリス知ってんでしょ!
─あっ、アリスだからね
分かんないかもね……。
いや、そもそも分かる気ないかもね……。
アランがたまらず
「その……知らなかったのですか?」
「父様。アイリスはアイリスよね?」
「ああ。アイリスはアイリスだよ。
ただ、アランの言うようにアイリス・ユークラリスという名前もあるんだよ」
「えっ!!」
アイリスは驚愕している
「えっ!」
「えっ!」
「えっと……いいかしら」
釣られて驚愕している家族にシェレイラが割り込んだ
「今までは可愛いらしいアイリス。
今日からは少し大人なアイリス・ユークラリスで良いのではなくて?
もうユークラリスの名を背負えるような、美しい令嬢になったのですもの。
さあアイリス。
アイリス・ユークラリスと自分の名前を言って貰えるかしら」
「あいりす……ゆーくらりす……。
アイリス・ユークラリス
わたしはアイリス・ユークラリス!」
「まあ、お上手。ちゃんと言えたわ!
ねぇ皆様。私この愛らしいご令嬢と少しお話しがあるの。
少しお借りして良いかしら?」
シェレイラの問に伯爵は
「なんだ話なら、後程【胡蝶の間】ですれば良かろうが」
「女には女同士のお話しがあるものよ。
殿方が聞き耳立てるのも、憚られるような事もございますの。すぐに終わりましてよ。
けれど、とても大切なお話し……。
察して下さると助かるわ。
よろしいかしら」
「……ああ」
男達は何かしら察した顔をした。
そしてそれぞれ成すことを成すために散った。
シェレイラはアイリスを連れて、少し人から離れた位置に移動した。
「アリー」
「なぁに母様」
シェレイラはアイリスの目をじっと見た。
─うっわ!ナニコレやばいわ
アリスと家族のやり取りを感動しながらただ眺めていた楓。アイリスをじっと見つめるシェレイラの瞳に恐れを感じた。
ヴァイオレットな瞳の奥底の炎のようなゆらぎ。
全てを見通すような深い深いナニカ。
瞳の光彩ひとつひとつが光を放ち、瞬き、蠢いている。
コレが現実なのか、はたまた意識体の楓だけに見えているのか……
「アイリスあなたと内緒のお話しあるのよ。
ふたりきりになれるかしら?」
『えっと、今ふたりきりですよね。周りに誰もいませんもね』
楓はキョトンとする
「母様とふたりきりね。うん、やってみる」
『あれ?なんか眠い。おかしいよ。だって今わたし肉体ないんだよ。アリス使ってるし……眠くてねむくて……もう……がまんできな…………』
楓の意識は深い眠りについた




