まあ嬉しい。ヒロインの誕生だわ
アイリスがリリに手を引かれている。
浴室から自室への道すがら
「お嬢様?いかがなさったのですか?」
突然ポロポロと涙を流し出したわたしに、リリとララが驚きの表情を浮かべる
「なんでもないわ。大丈夫よ。
ただただ懐かしくて…………」
リリとララがなんか納得してる。
きっと《久しぶりに眠りから覚めた》から、懐かしがってるって思っているよね。
誰もわたしが異世界転生したなんて知らない。
そうかわたしは─ひとりぼっち─なんだ
リリもララもみんなも、楓じゃなくわたしとして接している。
当たり前だけど今更知った衝撃
─ひとりぼっち
アリスいるけど、ふたりはひとりだけど。
─ちょっと堪える
ボロボロと零れる涙にリリとララ戸惑っている。
心配そうにしてる。
ハンカチで拭いてくれている
ハグしてくれた
「私たちはお嬢様が大好きです。
ずっとお仕えします」
ありがとう
気持ちが伝わってくる
もうあの世界に居場所はない
もう楓は死んだんだ
頑張らないと
死んだ楓の分も頑張んないと
チャンスもらったんだ
もう一度人生生きるチャンス
わたしになったけど
アリスと混ざっちゃってるけど
がんばる
がんばる
がんばる
がんばる
がんばる
ほら落ち着いてきた
笑顔笑顔
貴族は人前で涙はご法度
しもじもの上に立つものは
それだけの責任をもつ
涙なんてはしたない
もう大丈夫
笑顔笑顔
笑顔だよ楓
わたしに涙は似合わない
「リリ、ララありがとう。もう平気。
さあ行きましょう。父様や母様が待っているから」
もうあの家族とは会えない。
わたしの家族がホントの家族
─がんばれ楓!
リリとララもいる
─前を向いて!
「どこまでもわたしに付いてくるのよ!
リリ!ララ!」
「はい!お嬢様!」
元気よく歩き出したわたしに二人はいそいそと嬉しそうについていった。
張り切りすぎて、自室を通り過ぎたのはご愛嬌。
☆☆☆
「まだか!まだ来ないのか!
わたしはまだか!なにやってる!」
もう何度めかの独り言。
普段絶対しない貧乏揺すりをしている、この国有数の金持ち
─ロベルト・ユークラリス伯爵─
グレーの髪。
くすんだ灰色ではなく、銀色に近い。
絹糸のようで美しい。
瞳はアンバー。
鼻筋は通り、口は引き締まっている。
40歳近くになるがまだ30前半と見紛う調った顔立ち。
童顔を気にして口ひげを生やしてる。
かつて社交会で浮き名を流した美丈夫。
今も憧れの眼差しを向ける令嬢も多くいる。
今の風情は整った眉をひそめ、憂いに沈んだ瞳をしている。もしどこかでこの姿を見かけたら、思わず掛けよってハグしてしまうだろう。
その憂いを取り除くことは誰にも出来ない
ただ一人を除いては……
夕方目覚めたばかりのアイリス。
愛娘を待ち焦がれれている。
父様父様と、いつも無垢な笑顔で抱きついてくるアイリスに、何あろう先程拒否されたのだ。
─えっと
部屋に入れて貰えなかっただけだけどね
─それと、湯浴み覗くなって
ちょっと、いや大分落ち込んでる。
今は憤懣やる方無くて、こうしてグチグチ言ってる。
ここは食堂。テーブルの長さだけで大分ある。
装飾された室内。
贅を尽くしたシャンデリアは煌々と輝いている。
伯爵は、早くアイリスに会いたくて一時間も前からこの場所にいる。
何時もは食事の10分前にしか顔をださないのにさ
「貴方。約束のお時間までまだ20分ありますわ。
貴方が慌てても、わたしは早くくるわけではないでしょうに……」
そう呆れた眼差しを向けるのは……
シェレイラ・ユークラリス伯爵夫人
ピンクブロンドの髪を見事に結い上げている。
瞳はバイオレット。
わたしの生き写しだ。
齢は30半ばに達するが、磨きあげられた美貌は年齢を感じさせず、10は若く見える。
内面の豊かさも相まって、えもいわれぬ魅力を感じる。
ドレスの装いは控えめながらも艶やかで、美しい体のラインを際立たせている。
薄緑の色合いのドレスに見事に編み上げられたピンクブロンドの髪が映え、一輪の可憐な花のようだ。
そんな彼女は、ロベルトを上から下まで眺めて
─はぁ~
とため息をついた。
何処の世界に娘と会食するためだけに、王族を出迎えるような正装をしてくる親があろうか?
鍛え上げ引き締まった身体を感じさせる服のライン。
金糸銀糸をふんだんに用いた刺繍。
豪奢で繊細な装い。
魂胆は判っている。
ただアイリスに《格好いい父様》を演出したいだけ。
そんな格好で貧乏ゆすり。
目眩がする。親バカ通り越して、ただのバカである。
『それにしてもアイリス。どうやってあの坊やの毒気を抜いたのかしら』
シェレイラはアランを見る。
グレーの髪とアンバーの瞳。
ロベルトに似ているが、15歳にしてこの色気。
後5年もたたぬうちに、多くの女性を惑わすだろう。
本人が意識していないだけに、たちが悪い。
白に近いグレーのスーツ。
まだ学生らしい控えめな装いだ。
只持って生まれた美貌も相まって何とも云えぬそこはかとなく魅力を醸し出している。
今までは触れたら切られそうな、何だか危うい雰囲気を持っていた。シェレイラだけは、アランのアイリスに対する負の感情を判っていた。
アイリスと向き合う時のアランは、いかにも姉思いの善良な弟を演じていた。
だが一歩引いたところでアイリスへ向ける眼差しは姉弟や男女のそれではなく、憎しみや怒り悔しさなどを煮詰めた闇を感じていた
─危うい
そう思うシェレイラであったが、男子たるもの大きく成長するためにはそんな時期も必要だと、割りきっていた
──そしてあの日の事故が起きた──
あの自分からは人へ決して近寄らぬアランが、使用人の誰も信用せず人嫌いなあの坊やが【眠り姫】の元へせっせと通い出したのだ
いつしか闇は薄れた
だが、すぐに壊れてしまいそうな薄いガラスを幾重にも纏ったような、何かのきっかけでボロボロに割れ傷つきそうな、思い詰めたアランの姿があった。
もしアイリスがこのままあの世へ旅立てば、お供をしそうな危うさに変わっていた
そして今日
【眠り姫】の目覚めを告げたアランは、闇も薄ガラスも綺麗さっぱり何処かに落っことしていた。
アイリスの名を言葉にするたび、顔がみるみる赤くなり、何とも云えぬ可愛らしい表情や仕草をする。
取り繕ってはいるが、隠しきれてない。
あの鈍感なロベルトでさえもアランの変化に気付き、とたんに不機嫌になったものだ。
かつて『最後まで面倒見ろ』そんなニュアンスでアランに託したはずなのに、いざ本人がその気になると、気にくわないなんて
─男ってバカ
娘の気持ちが他の男に向くかもしれないのが、嫌なのだろう。
寂しがり屋さんだ。
もちろんアランの気持ちは、シェレイラには丸分かりだ。今まで何人の男たちが、シェレイラの前でそんな表情をしたのか?
会った瞬間、挙動不審になった男達も数え切れない。
遠くから熱い眼差しを受けつづけた日々。
今も時折感じる。
かかったら特効薬がない病。
周りが見えなくなって、たった一人だけ求める病
〈恋の病〉
アランほど分かりやすいのも、稀だけど……
『もしかして初恋かしら……まさかね……いや……あり得るわね』
アランは伯爵家の養子になる前、本の虫だった。
8歳からこの15歳になるまで、屈折しているとはいえ、アイリスにべったりだったのだ。
他の女子が入り込む余地はないだろう。
なら、こんな明け透けな恋も頷ける。
もうアランの心の中では、これからの白薔薇学園での三年間を何事もなく過ごし、卒業した暁にはわたしと夫婦となってもいいと考えているかもしれない。
『そううまくいくかしら?』
アイリスが今までの純真無垢な子供のままならば、それも容易いでしょう。でも、あの娘が女として目覚めたならばどうかしらね?
アイリスが蕾やサナギなら、誰も見向きもしないわ。
けれど、蕾が美しい花を咲かし、サナギからきらびやかな羽をはためかす蝶になったら人は放っておくかしら?
『美しく咲き誇る花は、摘まれるかもしれないわよ』
『舞い踊る蝶は、何処かに飛んでいくかもしれなくてよ』
もし蝶があなたという花を選んでも、突風が二人を引き離すかもしれないわ。
トンビが拐っていくかもしれないし……まぁ……トンビやカラス程度なら坊やでも、何とか出来るでしょうけれど……。
それが天駈ける鷲や鷹なら、太刀打ちできるかしら?
ただこれだけは言わせて……
「そんな甘ったれた顔で
恋に現をぬかしているようなら
拐われますよ隼さん」
シェレイラは小さく呟き、アランに微笑みかける。
それに気付かずほんのり顔を上気させ、夢見心地な少年アラン
『今は、恋に溺れていればよいわ。
もしあの娘が……あの伝承の乙女なら……世界が放っておかないから……。
夢はいつか醒めるものなのよ……坊や』
─さあ舞台は整ったわ
まだ序章だけど、あの娘は表舞台にたてるかしら?
─蕾やサナギのままなの?
それとも花や蝶になれたの?
アイリスは脇役のまま終わるのかしら?
それとも主役として、舞台の真ん中に立てるのかしら?
まあ……坊やの体たらくをみれば、一目瞭然ね。
楽しみだわ。
───さあ幕があがるわよ───
使用人が両開きの扉の左右に待機する。
ゆっくりと扉が開かれ、中央から伯爵令嬢が歩を進める。
ガタッ
ロベルトが中腰のまま固まる。
アランが目を見開く。
使用人達は口を半開き。
誰もが皆、目覚めたばかりの【眠り姫】に見惚れていた
『まぁ嬉しい。ヒロインの誕生だわ』
シェレイラだけが、時が止まった空間で思考を游がせていた
『これは……とびきりの……』
惚けた顔の男共を見回し、悪戯っぽくほくそ笑む
───嵐の予感───
扇で口元を隠し
─うふふ
と笑った。
嵐の予感……
今に思えばホントだわ。
ホントに嵐が起きそう……。




