チェルシー・フラム【下】
チェルシーが領地の実家であるフラム子爵邸に到着した時に、使用人の幾人かが迎えただけで両親の姿がなかった。
いつもは両親はチェルシーが帰ると大袈裟なほどに出迎えてくれたのに、今回は2時間後にお茶をしようと伝言しただけだった。
その2時間の間にチェルシーは軽食を済ませ、入浴し着替えてティールームで両親と会った。
何時もは笑顔を絶やさぬ両親であるが、今回はチェルシーを一瞥しただけでやけに真剣な面持ちで重い雰囲気を漂わせていた。
父のトムソン・フラム子爵は眼鏡を掛けた優男。
母のエマ・フラムは薄いブロンドの頭髪でチェルシーと良く似ている。二人が結婚した当初は、お互いの価値観の違いからすれ違ってばかりいたが、チェルシーが生まれてからは仲が良くなったという。今は誰もが認めるオシドリ夫婦だ。
[子は鎹]と言うけれど、チェルシーが切っ掛けで仲良しとなった夫婦は、殊更チェルシーを可愛がり溺愛していた。
なのに今はチェルシーの顔を見ても深刻な顔をするばかりで、笑顔ひとつ見せてはくれない。
帰宅の挨拶を済ませると、チェルシーは不安な気持ちで両親の顔を見た
「チェルシー。良く無事に帰った。
それは嬉しく思う」
父トムソンは硬い表情で言葉を続けた
「学園から送られてきた報告書は読ませて貰った。
チェルシー。舞踏会でユークラリス伯爵令嬢に酷い仕打ちをしたそうだが、この報告書の内容は本当か?」
チェルシーは報告書を渡され中身を読んだ。
時系列に合わせて良くまとめてある。チェルシーが扇でアイリスの頭部を殴り更に流血させたことや、ドレスを引き裂いた様子も客観的に記されている。
ここで反論したいのは山々だが、学園からの正式な書類であるし、誤魔化しても直ぐにバレるだろう。
チェルシーは覚悟を決めた。
こんな両親の姿を初めて見た。とても今まで通りチェルシーの嘘や我が儘を通してくれるとは思えない
「はい。その通りです……間違いありません」
「チェルシー……なんてこと……」
母エマは顔を覆って泣き出した
─そんなに泣くほど?
確かにチェルシーの仕出かしたことは少々ヤバいとは思うし、長期の停学とかにならず10日間の謹慎で済んだのはラッキーだった。でも母が泣くほどのことも無いとは思う。
父はしばらく母を慰めていたが、落ち着くとチェルシーを見詰めた
「前回貰った手紙にはユークラリス伯爵令嬢と仲良くなり、級長となった御令嬢を支えると書いていたはずだが、何故こんな風になったのだ?」
「あのピンク……いえ、アイリス様は婚約者はいませんがパートナーのアラン様が居られるのに、次から次へと男漁りを繰り返すので皆でお灸を据えただけです」
「それは報告書では誤解であると記されていたぞ。
これを見る限り多くの御令嬢方は伯爵令嬢の行動を良く確かめもせずに、感情的になって暴発したように思える。
あの事件のあった小ホールへ連れてきたのも、チェルシーのようだな?
よしんば伯爵令嬢がそのような行為を行っていたとしても、何故チェルシーが率先して関わるのだ?
お前の婚約者が誘惑された訳でもないだろう?
何故だ?」
「だからそれは……」
アーサー王太子殿下やアラン様など、他の良いお顔で有名な殿方達に囲まれてチヤホヤされているアイリスが羨ましかった……とはとても言えない。
ただの嫉妬を膨らませただけだ。
本来ならばチェルシーこそ目移りせずに、同じ学園に通っている婚約者と仲良くしていれば良いだけの事。
冷静になればアイリスに婚約者を奪われたと誤解していたサマンサ様やサラサーラ様なら分かるけど、婚約者がかすりもしないチェルシーが怒るのは筋違いも甚だしく、ましてや高位の伯爵家たるユークラリス家に喧嘩も売ったも同然の行為だった。
今回は何故かユークラリス家が長期の停学者や退学者を出さずに1月の長期休暇が明けたら、皆が裁きを終え登校出来るように取り計らってくれたという。
チェルシーはあまりに多くの貴族家が関わってしまい、ユークラリス伯爵家が怖気付いたのだと思う。
ただ。ユークラリス伯爵の子煩悩振りは有名で、素直に穏便に済ませたとも思えない。
政治的バランスもあるのかも知れない。
そして格下のフラム家に対しても、くれぐれも懲罰の内容に沿い、チェルシー嬢の未来を考慮して短気を起こさないようにとユークラリス家から手紙が届いたという。
懲罰の内容に沿っては分かるが、短気を起こさないとはどういう意味だろうか?
「チェルシー。今回の事件でお前の婚約式は延期になった」
それは婚約者に会った時に、本人から聞かされてもう知っている。10日間の寮での自室謹慎を終え、帰郷する直前に婚約者と会ったのだ。
本来はそのまま王都に残り王宮舞踏会でデビュタントして、その長期休み中に教会で婚約式を挙げるつもりだった。
でも今回の騒動で両親からはデビュタントの許しも貰えず、婚約式の延期も決まった
「こちらは婚約の白紙を打診したのだ。だが先方は解消するつもりもなく、延期に留めてくれたのだ」
婚約者は冴えない小太りの男子だ。
学園に通う前はワンシーズンに一回、そして学園に通い出してからは月一回の割合でお茶をしている。
優しくて気立てが良くてつまらない男だ。
チェルシーは一人娘だから、婚約者は養子に入りフラム子爵家の跡を継ぐ。
家同士が取り決めた恋愛も何もない婚約だ。
だからアイリスの美男の貴公子に囲まれた恋物語に、言い知れぬ黒々とした嫉妬を感じていたのは否めない。
チェルシーが家と家との取り決めだから必死に言い聞かせてタイプでもない男との婚約を諦めているのに、その直ぐ近くで妖精のような美少女のアイリスが恋愛ごっこを楽しんでいたのが許せなかった。
おんなじ女に生まれたのに、不公平だと思っていた。
その不遇な想いをここで両親にぶちまけたところで、どうしようも無いと思うくらいにはチェルシーも成長した。
学園では我が儘や癇癪などを起こせば、それこそ噂になり一生社交界で馬鹿にされるだろう。
だからチェルシーは言い訳や自分の根拠無き正当性を主張したいのをじっと堪え、涙を溜めて俯いていた
「チェルシー。今回の騒動がもしなければ、舞踏会でデビュタントして婚約式も無事終えただろう。
だが、今更その事に対してどうこう責めるつもりもない。
ただ我らフラム子爵家として婚約式を終えた二人に、話しておきたいことがあった。
成人となった二人にはどうしても話しておかねばならない事であった。
君はまだ反省の気持ちが薄いようだから今から話そう。これを聞いて少しは心に留め置いて欲しい……」
そして父トムソンは語りだした。
フラム子爵家はチェルシーが生まれて間もない頃、王都を舞台とした大規模な詐欺事件に巻き込まれた。
ある投資の話が舞い込み新たな事業への参加を目論んでいたフラム家は乗ってしまった。
そして提案者から紹介された金貸しから高金利で金を借りて、事業に投資した。
もちろんその事業は真っ赤な嘘で、莫大な借金だけが残った。
それが払い切れず、抵当にはいっていたこの屋敷も何もかも失う寸前に陥ったという。
その危機を救ってくれたのがユークラリス伯爵家だという。別に両家が親しい訳ではない。噂を聞き付けたユークラリス家が一方的に好意を向けてくれたのだ。
先ずはフラム子爵家の借金を全て肩代わりして、一括で支払い低金利の金融業者に乗り換えた。
そしてこれから展開する事業の共同で当たることになった。もちろんその資金も借金することになったが、それはユークラリス家が出資してくれて、事業が回りだす5年後から返済するように取り計らってくれた。
やがて事業も波に乗り借金も返し終えた頃、共同事業をフラム子爵家の単独事業にしてくれた。
それだけではなく幾つか共同事業に誘ってくれて、軌道に乗ればフラム子爵家に任せてくれた。
そのお蔭で今日まで子爵家は生き長らえて来たという。
それが本当ならチェルシーの行為は、大恩あるユークラリス伯爵家に恩を仇で返す行為に成るだろう
「我らフラム子爵家はお前の3月までの自主停学と事業のユークラリス家への返却を打診したのだ。だがそれは全て断られて、先の返答が来たのだ。
くれぐれも短気を起こさぬようにとな……」
そして父は何故縁も所縁もないユークラリス家がフラム子爵家に投資したのか、教えてくれた
「ユークラリス伯爵家にもその頃に女の子が生まれたそうだ。それがアイリス嬢なのは君にも分かるだろう?
ユークラリス伯爵はわたしの疑問にこう答えてくれた
『お宅のチェルシーちゃんとわたしのアイリスは同じ白薔薇学園に通い同じ学年に成るだろう?
ならこんな理不尽な詐欺事件で娘の大切なお友達を失う訳には行かないだろう?
お金ももちろん大切だが、人と人の繋がりも大切だ。
二人がお友達に成れるかは本人次第だけど、チェルシーちゃんや娘のアイリスにはその機会を与えてあげたいと思ったのだよ。ただの親バカさ』」
─わたしはただの馬鹿じゃんか!
チェルシーは思った。道理で手紙のやり取りでアイリスと同じクラスになったり、友達になったと報告した時はやけにテンション高く喜び浮かれた手紙を返信してくれた訳だ。
両親はわたしの手紙の内容を信じくれていた。
友達に成りかけの時はチェルシーもこのまま仲良くなれると信じていた。
両親の手紙にはアイリスを助けて、くれぐれも仲良くするようにとクドいくらいに記してあった。
当たり前だよね。
チェルシーがアイリスと仲良くすれば、ユークラリス家への恩を返す事になるわけだから……。
「チェルシー。今回の騒動を受けてのユークラリス伯爵家からの返信からはこうも記してあった
『誤解も解ければいつかはわだかまりも小さく成るかもしれない。今はお互いに無理に仲良くしなくても良いと思う。けれど長い人生においてまた巡り合えれば、お互いに経験も積んで重なりあえる時が来るかもしれない。
その時には友人に成れる選択肢も残しておいて欲しい』
これはユークラリス伯爵からチェルシーへ向けたメッセージだと思う。
わたし達は保護者としてこれを君に伝えた。後はこの言葉をどう心に落とし込んでいくのかは、君に任せようと思う。
もうチェルシーは成人したのだからな」
チェルシーに委ねられたのは、ユークラリス伯爵や両親からの人生をかけた宿題
─もう妬んでばかりもいられない
例えアイリスとの仲が拗れて修復不能だとしても、ユークラリス伯爵家との関係は続いて行くのだろう。
妬み嫉みの嫉妬を募らせても後半年もすれば婚約式は行われて、卒業した暁には結婚してビジネスの道へ歩みを進めるだろう。
夢見る乙女は夢を叶えないままひとつの区切りを迎え、物語を終えた。
チェルシーにはこれからの人生もアイリス断罪劇での汚名は付いて回るだろう。婚約者もその汚名を共に乗り越えていく覚悟で、婚約の解消を受けなかったのだ。
恋愛からは始まらない二人だけど、結婚までの過程をもう少し婚約者と向き合って過ごすのも悪くない。
チェルシーの新学期は成人を自覚しての初めての学園生活に成るだろう
『先ずは謝罪からかな?許して貰えるまで何度も謝ろう』
アイリスに罵られても嫌われても甘んじて受けよう。
それがチェルシーのケジメ……。
成人としての第一歩だから……。




