「薄っぺらいスクリーンのなかへ」
「この瞬間が永遠になればいいのに」
この瞬間が永遠になればいいのに……と、ふと思うことがあって、そういうときというのはたいてい、素朴さを感じるときなのだと思う。以前、似たようなものを感じたときは、甲州街道を歩いていたとき。風があって気持ちよかったのか、アスファルトの合間の緑に癒しを感じたのか、それとも、観劇前もしくは観劇後のちょっとした気分の高揚からだったのか……、「私の人生、たぶんいろいろな出来事が起こるのだろうけど、本当はそんなビッグイベントなんて重要じゃなくって、なんでもない安らぎを感じているいまこそが、私の生まれた意味そのものなんじゃないか」と……、そのときは、そんなような思考をしたように思います……
今回は、家のトイレでした。後ろの窓にレースのカーテンがかかっていて、そのカーテンを通した光が、私のメガネのレンズの内側に、青い像を作っていた……。私は鼻歌を歌い始めました、中国か朝鮮半島の民謡のような……そういうドラマで流れるような節を作って……
「薄っぺらいスクリーンのなかへ」
顔ごとメガネのレンズをずらすと、映った青い像も動く。それがまるで、映画のカメラワークのようで、私はわざと揺らしたり、パンをしてみたりした。メガネの先にある暗い色のプラスティック……トイレットペーパー入れのフタ……、それがどうやら、青い色を際立たせている背景のようで、レンズを上へパンすると、像がフレームアウトする……、そんなことを楽しんでいるうちに、私はふと、思ったのです、薄っぺらいスクリーンのなかへ、永遠に閉じこめられてみたい……と……
映画館という特異な場所……レストランやカフェではありえないほどに、びっしりと並べられたシート……観客はみな、目の前のスクリーンに向かって、長い時間、腰をおろしていて……映った像のなかには、確実になにかがあって、人はそれを感じ取って、涙したり……あらゆる種類の感動が催される……けれど……、実際のスクリーンは薄っぺらくて、そのなかに映し出される像は、窮屈ななかに、窮屈でないように、閉じ込められているのだ……。映画は芝居と違い、映像そのものが記録されたものだから、そういう意味で、半永久的に残される。フィルムに記録された映像は、スクリーンによって上映のたびごとに現れるけれど、それでもやっぱり閉じこめられたままで……映像はたしかにスクリーンのなかに存在するのだ。……そう思うと、私もなにか、映画の登場人物……光る影……として、スクリーンの映し出す永遠のなかへ、動く静止画として、閉じこめられてみたいと思えるのです。感動を与える映画の世界へでも、また、映された瞬間だけ現れる、人工的な影として、でも……
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以前感じた甲州街道での感覚というのは、同じ場所を通るとやっぱり、そのときの思考がよみがえってきますね。ちなみに、今回のカーテン、柄を確認してみたところ、籠に入った花々でした。今日はこのくらいで終わりにしたいと思います。
2018/6/4 梶生モットシボ郎