「花は近くて、カラスは遠い」
「花は近くて、カラスは遠い」
またまた過去の想い出話ですが……、わたしは以前、所用があって東京の有名な公園へ行ったときに、桜を見ました。そこでひとり、お花見を楽しむことにしたのです。周りの人たちはたぶん、「今日はお花見」だったのだと思います。でもわたしは、ほんのついで、気まぐれのお花見は、その日の一部でしかなかった……
お花見といえば、桜の花でしょう。なかには、おだんごという人もあるでしょうけど。でも、桜といえば、お花でしょう。わたしは高校で、評論用語として習った覚えのある「遠近法」という考え方を、ふと思い出しました。花というものは、私たちにとっては価値のあるもので、木の幹や根っこなんかよりも近くに映る……。でもわたしは、白い花を際立たせる、緑の葉っぱにひかれました。それから幹のこけを見て、写真を撮りました。わたしに写真を撮るという習慣があったおかげかもしれないけれど、とにかくわたしは、あのとき、桜の花をめでる大勢のお花見客よりも、遠くのものに目を近づけたという点で、よりいっそうお花見を楽しんだのだという気がしています……
なかでも印象に残っているのは、枝にとまるカラスでした。……桜にカラス、そんな言葉を聞いたことがないからかもしれません、わたしがそれにひかれたのは。ただ目の前にあらわれた光景を、純粋に楽しむことができたのは……
「桜と傘、そして小説」
その日、わたしが持っていった傘を忘れずに持ち帰れたのは、このお花見のおかげでした。午前中は雨が降っていたのに、おひるにはお花見日和に変わってしまっていたので、うっかり傘を置いてきてしまった……のですが、お花見をしているうちに、わたしはそのことを思い出して、取りに戻ることができたのです。なにがどこにつながるかわからない。わたしたちが見ている、重要なものっていうのは、やっぱりほんの一部でしかないのかもしれません……
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もう何年か前の話なのですが、わたしは今こうやって、ふりかえって書いている。そして、「花は近くて、カラスは遠い」で書いた感覚は、半年くらい前にすでに小説のなかで使っている素材でもあるのです。以前もうしましたように、わたしは使い回しということをよくやります。今回書いているものも、その素材の使い回し……、ということは、それだけわたしの心が、あのときの出来事を近くに見ている、ということでもあるのです。今日はこのくらいで終わりにしたいと思います。
2018/3/27 梶生モットシボ郎