「虚構の幕」
「プレリュード」
ラヴェルの『水の戯れ』を聴く。静かな夜、幻想的な夜、どこかのお屋敷の噴水からふきだす水はたえまなくて、妖精たちの世界を描きだすような電飾にいろどられながら、そうっとわたしを、空想へと誘うのです。部屋には加湿器の音があって、幻想の盛りあがりとともに、ちょうどいい具合に音を強めながら、現実の水を吐きだします。わたしは花粉症で、鼻をすすりながら、先月の豆まきののこりの煎り大豆をかじります。曲の終わりはなだらかで、ゆっくりと、わたしは迷宮の幕へ沈んでいくのです……
「虚構の幕」
わたしは以前、このラヴェルの曲を前奏として、ひとつのお芝居を書いたことがあります。筋は、こう。……しがない劇作家の青年のところへ、一人の奔放な少女が現れ、居候をすることになる。ところが少女が問題を起こし、二人は町から姿を消す……森の中で仲良く暮らす男女ふたり。けれど、ふたりの気持ちはすれ違っていって……
映画好きの人は、ピンとくるかもしれない。イングマール・ベルイマン監督の『不良少女モニカ』、ゴダール監督の『気狂いピエロ』、そういう映画に憧れて、流れていくような、男女ふたりを描きたかった……
青年の「印象による独白」という枠をつくり、劇中の少女との会話、交流はすべて、死に際の彼の目を通した、記憶を追う旅であるということ、それを登場人物の口から、はじめの口上として語らせた。劇というのはすべて虚構だけれど、これによってさらに、主観的な虚構の幕をかさね、溶けあわせ、幕と幕の境すらわからないような世界を生みだそうとしたのです……
青年を劇作家……という設定……にしたのは、彼の主観である「印象」の世界に、既存の戯曲のセリフやイメージを持ちこむため。どこかに発表するつもりで書いたものではないけれど、著作権には慎重に、パブリックドメイン、権利切れの作品から、セリフやイメージを借りました。チェーホフ、シェイクスピア、岸田國士……当時のわたしがはまっていた作品、なけなしの知識のなかからですが……
「そうしてまた、音楽」
この劇は、見捨てられた青年の独白で終わります。彼の口からは、最後の追想として、この劇中の少女のセリフと彼自身のセリフが、境目なく、フラッシュバックのようにあふれだす……、バックには、クロード・ドビュッシーの『美しい夕暮れ』が流れて、静かな感動のうちに舞台は溶暗。あとに残るのは、何者かが青年を打つ、機械的な音のみ……
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今日は、過去の創作の迷宮へもぐってみました。が、やっぱり、現実の鼻炎という存在からは逃れられないものです。ただ、加湿器の音とストーブの音に意識を向けると、やっぱりほっとするところがあります。前回書きましたように、外のものは、わたしの思考や空想とは関係なく存在しているわけで……
このときの戯曲は、いまだに未公開です。様々なものから影響を受けて、自分の作品へと落としこもうとしたもの。下手でもいいから、理解なんてできなくてもいいから、名作と呼ばれるものから受けた印象やインスピレーションを少しでも自分のものとしたかった、そんな作品でした。これも前回書いた、アリアドネーの糸を使った空想という試み、なのかな、と思います。今日はこのくらいで終わりにしたいと思います。
2018/3/12 梶生モットシボ郎




