「旅は、一本の木から始まる」
「旅は、一本の木から始まる」
玄関を出ると、ぼけの木があります。しろく煙るような、あるいは凍てつくような季節には、あかい花をつけていたけれど、今はしろい。痛烈な美がやわらいで、おだやかな陽気が、花の妖気がかぐわしく広がる。ただ、気だるさのみは受けついで、あらたな倦怠の季節へと、わたしを誘うのです……
ルドンの曖昧さが好き。オディロン・ルドン、フランスの画家です。彼は不思議な世界を描く人。黒い版画と、やわらかな色のパステル画、油彩画があって……。わたしたちの思考は、彼とおなじく、さまざまなものの混沌としたはざまにある。年輪のなかには、たとえば、カブトムシのしろい幼虫が埋まっている。わたしは緑のやどりぎのような、優秀な性質を持ってはいないけれど、できうるかぎり貪欲に、ほとんど怠惰といってもいいくらいに、このある種類の栄養につかり、みつの色をたしかめてみたいと思うのです……
「たまねぎ」
現実では、一時間ほど経ちました。玄関を出てから、一時間。ぼけの花から、一時間。それなりの距離を移動しました。わたしの頭の円周でいうと、何個分なんだろう……
オニオンスープを飲みました。オニオンコンソメ、それはわたしの好きなもの。あまく煮詰められたたまねぎは、わたしの口中をあめいろに染める。この、わたしの大好きな飲み物、しあわせのつまったオニオンスープは、もう少しあたたかくなると売られなくなる。季節限定の、オニオンスープなのです……
オニオン……、たまねぎといえば、わたしは今年、たまねぎの絵を描きました。去年のたまねぎにおぼえた感動を、今年になって。わたしが描いたものは、ゴッホの絵でもなければ、『ペール・ギュント』のそれでもない。去年見たたまねぎの、感動の記憶……印象……、わたしはそれを想い出して、絵に描いた……
きんいろの、まるい静物。それを見たときわたしは、それが単なる食べ物ではないと知りました。梶井基次郎の檸檬は、わたしにとっては、たまねぎだったのです……
ぼけにしろ、たまねぎにしろ、わたしはなにかを見つけると写真を撮る。スマートフォンのカメラで、ぱしゃりと撮る。それは見るための写真ではなくて、想い出すための写真であって、記録のための写真。感動を目にしたければ、絵に描けばいい。写真という、アリアドネーの糸をたぐりよせて……
「迷宮」
アリアドネーというのは、ギリシャ神話に登場する人間、女の人。入ったら二度と出られないとされている迷宮ラビュリントス、そこへ行って怪物を倒す英雄を、無事に帰還させるための糸を、アリアドネーは用意したのです。その糸のおけげで、英雄はこころおきなく冒険へ出かけ、ことをなし、帰ってくることができたのです……
わたしはギリシャ神話が好き。あるけれどないもの、他人のものだけれど自分のもの……同人誌作家の二次創作と似たような感覚かもしれない……、そういう意味で、わたしの空想には、いのちづながついている。現実の草木のいっぽんの枝へ、わたしはいつでも帰ることができる。ルドンの絵のように……
いうなれば、窓のある迷宮。迷宮は一本道で、奥へしか進めず、螺旋状に続いていく。その先は闇に包まれていて……、ただ、不思議なことに、外側を見ることはできるのです……、どれほど深く進んでいても、たぶん。それはスモークのかかった自動車のガラス窓のようで、外から中を見るのには適していない。中から外を見る者は、スモークのわりあいを調節できて、それは、ルソーの絵のような度合いから、だんだんと現実へよせていくことができるのです……
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書き始めてから、だいぶ時間が経ちました。現実では、もうとっくに家へ帰って、夕飯も済ませました。家へ入る前に、白いぼけの花をぱしゃりと写しました、例の記録のために。今日はこのくらいで終わりにしたいと思います。
2018/3/11 梶生モットシボ郎