後編
事故の規模に比べて茜のケガは重傷ではなかったことが幸いし、1週間後には松葉杖なしで歩けるようになり、2週間で医者から完治宣言が出された。この間、茜は病院以外の外出を全くしていない。松葉杖を突きながらでは買い物もロクにできないので、実家に連絡を入れて、レトルト品やカップ麺などを宅急便で送ってもらうことで、乗り越えた。
壊れた自転車については、茜の松葉杖が外れるのと同じころ、警察から犯人逮捕で捜査を終了したので、お返ししますと連絡があった。そのまま修理を依頼し、ちょうどケガが完治したときに自転車の修理も済んだ。
(買い物に出るのも久しぶりだなぁ。買い物に出られない間、レトルト品ばかりだったからちょっと体重が心配だし、しばらくはお肉よりヘルシーな魚にしようかな)
医者から完治宣言が出されてから数日後、茜は修理の終わった愛用の自転車に乗って駅前の商店街に来ていた。この界隈は国道が通っている割にはまだ昔ながらの街並みがそれなりに残っており、スーパーマーケットは駅から離れた郊外にあるだけなので、駅前の買い物は商店街をめぐる必要があった。
商店街の通りは朝晩を除いて、自転車すらも進入禁止の、完全な歩行者専用道路になっており、車は提携しているコインパーキングに、自転車などは専用の駐輪場が用意されているので、そこに停めて歩いていくことになる。
茜もきちんとルールに則り、乗ってきた自転車を駐輪場に停めて、通りの中ほどにある魚屋に向かう。
「らっしゃいらっしゃい、今日はいい秋刀魚が入ってるよ! 今が旬の特別価格だ! 1尾あたり180円のところを、今日だけ1尾150円だ!」
魚屋の前に差し掛かると、店主が秋刀魚をアピールしていた。その声に、近くを歩いていた買い物客が魚屋に押し寄せる。――茜も含めて。
「うおっ!? ケンスケェ! ちょいと店を手伝ってくれぇ!」
あまりに客が殺到しすぎて1人では捌ききれなくなったのか、店主が店の奥に向かって声を張り上げる。その声に応じて、のっそりと大柄なシルエットが奥から現れた。
「あっ……!」
その顔を見て、茜が思わず声を上げた。――店のエプロンを着けて出てきたのは、まぎれもなく、先日の事故の際に助けてもらった健介だった。
「あんたは、こないだの……茜、だっけか。ケガ、治ったんだな。思ったよりも大したことがなくて、よかったな」
健介も茜のことは覚えていたようで、彼女の買う魚をビニールに入れつつ、話しかけた。
「ええ、あの時は本当にお世話になりました。おかげさまで、傷跡とかも残らず完治しました。村岡さんはこちらに住まわれているんですか?」
茜は改めて健介に感謝の気持ちを伝えると、ついでとばかりに訊ねてみる。
「あ、ああ。俺の実家、ここだからな。看板見てみ?」
何度も礼を言われることが照れくさいのか、健介はちょっと顔を赤らめて目を逸らしながら答えた。茜が店の看板を見るために一歩下がってみると、“村岡鮮魚店”と書かれた看板があった。
「そうだったんですね……じゃあ、これで」
茜は納得の表情でひとつ頷くと、健介に代金を支払って魚を受け取り、いまだごった返す魚屋の店先から立ち去った。その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
それからというもの、茜は村岡鮮魚店によく通うようになった。表向きは「肉よりヘルシーな魚を多く食べるため」ということにしておいたが、その実健介に会いに行ってることは明白だった。
ひと月が過ぎるころには店主――健介の父・健太郎とも顔なじみになり、茜が店に来た時に健介がいれば、気を利かせて呼び出してくれたので、2人の距離は少しずつだが、着実に近づいていった。
さらに数ヶ月が過ぎた。時々2人で遊びに行くなど、順調に関係を深めていっていた2人だったが、未だにどちらからも告白をしていなかったので、正式な恋人同士には発展しておらず、ただの友人関係のまま。
(出会ったきっかけこそ偶然だったから、最初のうちは健介さんに何か下心でもあるんじゃないか、なんて疑ってた時期もあったけど、出会ってからもう半年近く経つのにそうしたことを求めてこないから、本当に優しい人なんだってわかった。でも、健介さんのほうも全然告白してくる様子がないのは、誰か他にお付き合いしてる女性がいるとかで、私が女の子として見られてないからかもしれないけど、そうだとしても私、健介さんのことが好き。明日、玉砕覚悟で私の想いを伝えよう……!)
そんなある日の夜、茜はついに一歩踏み出し、健介に告白することを決心した。
翌日、茜は意気揚々と村岡鮮魚店にやってきた。すると、この日は珍しく健太郎ではなく、健介が店頭に立っていた。嬉しさに駆け出そうとした茜だったが、駆け出す一歩を踏み出そうとしたのと同じタイミングで、商店街の反対側から別の女性が駆けてきて、店頭に立っている健介に飛びついた。
(えっ…………!?)
茜はショックを受けた。今まさに自身がやろうとしていたことが見知らぬ女性に先を越されたこともそうだが、抱きつかれている健介の表情が、茜と2人で過ごしている時よりも、茜の主観だが輝いて見えた。
(なんだ、やっぱりお付き合いしている女性がいたのね。だから私にはただの友人としての付き合いだけだったんだ……)
ショックを受けた茜は踏み出しかけた足をそのままUターンさせると、走り去った。
「あ、茜っ!? ちっ、あいつ絶対誤解してる! オヤジ、ちょっと抜けるから、店は任せた! ――お前もいつまでもくっついてるんじゃない!」
だが、偶然か必然か、健介が振り向いて走り去る茜の後ろ姿を見つけてしまった。健介は目撃された場面の状況から茜に誤解されたことを察し、慌てて抱きついている女性を振り払い、エプロンを脱ぎ捨てると、店の奥で休憩していた健太郎を呼び戻し、茜の後をダッシュで追いかけ始めた。
茜が履いていたのはブーツだったために走りにくく、健介は健介で長靴で店に立っていたが、履き慣れた長靴であったために走ることを苦にせず、商店街を出てすぐのところにある公園で追いつくことができた。
「茜、話を聞いてくれ。アイツは……」
健介が全力ダッシュで乱れた呼吸を整えながら話を切り出そうとすると、
「わかってるわ、私よりあの女性のほうがいいって。彼女に抱きつかれていた時のあなたの表情、私といるときよりもずっといい表情だったもの。でも、私たちは正式な告白をしてなくて、お付き合いしているとは言えなかったから、そのことで文句を言うつもりはないの。さよなら、健介さん。この半年くらい、とても楽しかったわ」
茜が健介の言葉を遮るように少し涙を浮かべながら切り返し、一方的に言うだけ言って立ち去ろうとした。
「ちょっと待て、茜っ! 見たものだけで勝手に解釈してないで、俺の話を聞けっ!」
だが、健介が茜の手首をむんずと掴み、半ば強引に向き合わせた。
「…………」
「さっき茜が見た、俺に抱きついてた若い女は、2歳離れた、妹の翠だ。5年くらい前に両親が離婚した時に、俺は親父に、翠は母親に引き取られ、俺たち兄妹は離ればなれになった。成人するまでは半年に1回は会う、っていう約束だったが、翠の希望により、成人した今でもそれが習慣化してる。で、今日がその半年に一度の約束の日だったわけよ。俺も久しぶりに会う家族に顔が緩んでたことは否定できないが、アレは血のつながった家族である以上、断じて浮気じゃねえ。俺が本当に好きなのは、茜。お前だけだ!」
健介は戸惑う茜を強引に抱き寄せながら、事情を説明する。
「い、妹……? それ、ホント……?」
茜は突然抱き寄せられたドキドキとさっき見たものに対する戸惑いがごちゃ混ぜになった複雑な表情で、健介に問い返す。
「ああ、本当だ。けど、あんな場面を見せられちゃ、ただ口で“信じろ”と言っても難しいよな。だから、行動で示すよ。これで、信じてくれるか?」
健介は抱き寄せた茜を離さないとばかりに強く抱きしめ、しっかりと目を見ながら、その唇にキスをした。
「…………ッ!」
茜は抱きしめられた段階ですでにテンパっていたが、さらに不意打ちのキスをされたことで、いよいよ頭が真っ白になってしまった。
「俺、茜と出会ったあの事故の日に一目惚れしていたんだよ。でも、助けたその日に一目惚れした、付き合ってくれっていうのもなんか変だろ? だから、その日はいったんクールダウンして、また会えたらちゃんと言おう、そう思ったまま言い出せなくて、ずっとなあなあで過ごしていたことが、今回の誤解を招いたことは疑いようのない事実だ。とっとと言うべきことを言わなかった俺が悪かった。茜、お前のことが好きだ。俺と、正式に付き合ってほしい」
健介は唇を離し、抱きしめていた茜を解放すると、一度頭を下げて謝罪し、改めて告白をした。その瞬間から、道路を走る車の音も、街の喧騒も、健介の耳には入らなくなり、痛いほどの静寂が2人を包む。
「健介さん……私も、私も健介さんのことが好きです……! でも、本当に私でいいんですか……?」
1分ほどの静寂を破って、茜が涙声で返事をした。
「“茜でいい”なんていう妥協じゃない。茜じゃなきゃ、ダメなんだよ……!」
健介は首を振って茜の認識を否定する。妥協ではなく、健介自身の意志で、オンリーワンなのだ、と。
「健介さん、ありがとう……!」
健介の想いを知ったことで茜はついに涙腺が決壊し、ボロボロと大粒の涙を流しながら、健介の胸に飛び込んでいく。
健介はそれをしっかりと受け止め、彼女が泣き止むまでずっと抱きしめ続けたのだった。
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