前編
「痛っ……」
夏の夕暮れ迫る、ある街の国道の道端で、少女が1人、道路の縁石に腰掛けて左足を押さえていた。その左足はあちこち擦り傷ができているほか、足首のあたりは挫いたのか、腫れあがっていた。そんな少女の傍らには、後輪が歪んでもはや動きそうにない折り畳み自転車と、彼女の荷物であろう、小型のハンドバッグ。
こうなった原因は、数十分ほど前に遡る。
大学進学をきっかけに地方から出てきて、一人暮らしをしている少女は夕飯の買い物に行くため、通学などにも使用している折り畳み自転車に乗ってアパートを出かけたのだが、駅前の商店街に向かう途中の道が工事で全面通行止めになっていたのでやむを得ず迂回し、国道に出た。交通量が多い道なので最初は歩道をゆっくり走っていたが、少し走った先でハイキング客のような恰好をした歩行者がバス停に滞留していたために歩道を進めず、一時的に車道に出て走っていたところ、後方から走ってきた車に接触され、バランスを崩して転倒してしまったのだ。
接触した乗用車は気づかなかったのだろうか、そのまま走り去ってしまった。転倒したために、走り去った車両のナンバーや車種などは見えておらず、さらに運の悪いことに、接触の瞬間、後続車両はおろか、対向車線にも珍しく車がいなかったことにより、目撃者ゼロのひき逃げ事件になってしまった。唯一、シルエットの大きな車体、という曖昧な情報があるだけ。また、少女自身も気が動転しており、警察を呼ぶことも、救急車を呼ぶことも忘れていた。
少女が暮らすこの街は都下とはいえ、腐ってもここは国道であり、片側2車線ある道路の交通量は昼夜を問わずかなり多い。現に、足を押さえながら顔を歪める彼女のそばを次から次へと車がかなりの速度を出して走っていく。すでに事故発生から数十分経っており、中には少女のそばで減速して様子を伺うドライバーや、歩道上を疾走する自転車など、様々な人が通り過ぎていったが、誰一人として少女に手を差し伸べるものはいなかった。
「やっぱ都会の人って冷たい人ばかりなのかな……どうしよう、とりあえず家に帰らなくちゃ……痛っ!?」
ひとまず部屋に帰れば消毒薬や湿布薬程度は常備してあるので、少女はなんとか部屋に帰るために立ち上がろうとしたが、腫れあがっている足首に激痛が走り、すぐにまた蹲ってしまった。
「歩けそうにない、か……こういうときって、救急車呼んでもいいのかな?」
赤く腫れあがった足を見て少女は途方に暮れる。と、その時。
「おい、あんた。ケガしてるのか?」
突如として少女の頭上に影が差し、声がかけられた。少女が顔を上げると、茶髪の青年が座り込む少女を見下ろしていた。
「あ、えっと、ちょっと車にぶつけられて転んじゃって……」
少女は求めていたはずの救いの手があまりにも唐突に現れたことに戸惑ってしまい、満足な説明ができずにいた。
「車にぶつけられた? 相手の車は……いなさそうだな。警察は呼んだのか?」
青年は少女の拙い説明でもある程度を察し、矢継ぎ早に質問を重ねていく。
「えっと、ぶつけた車はそのことに気づかなかったのか、止まらずに走り去りました。警察は、ケガの痛みで気が動転してて呼んでないです」
少し落ち着きを取り戻した少女は青年の質問にひとつひとつ答えていく。
「そうしたら、まずは警察を呼んで事故処理をしてもらわないとな。これは立派なひき逃げ事件だからな。……もしもし、……ええ、お願いします」
少女がまだ警察を呼んでないと聞くや否や、青年はポケットから自らの携帯を取り出し、110番通報を行う。
ほどなくして、パトカーが到着した。それに少し遅れて、救急車もやってきたことに少女が驚いていると、
「事故などで110番通報があった際に、ケガをしている方がいる場合は自動的に救急にも情報が転送される仕組みになっているんですよ」
駆け付けた救急隊員は腫れあがった少女の左足の状態を診ながら教えてくれた。
「えーっと、それでは簡単に書類を作りますので、まずはあなたのお名前を教えていただけますか?」
救急隊員が足の診察をしているのと同時進行で、警察官が調書を作るために少女に質問していく。
「あ、はい。名前は須藤茜。18歳の大学1年生です。住所は……」
少女――茜は事故から時間が経ったおかげかだいぶ平常心を取り戻しており、警察官の質問にしっかりとした口調で答えていく。
「俺は村岡健介、23歳。職業は家業の手伝い。たまたま道端で蹲る彼女を見かけたので、あそこのコンビニに車を停めて、助けに来た……っていうとちょっと大げさだな。まあ、様子を見に来た、ってところか」
一方、茜に救いの手を差し伸べた青年――健介も警察官に話を聞かれていた。直接事故を目撃していたわけではないので、答えられることは少なかったが。
「では、我々はこれで。須藤さんの自転車は証拠品として一時的にお預かりさせていただきます」
茜と健介、双方から話を聞いた警察官は引き揚げていった。目撃者がいないのでひき逃げ犯の検挙は難しいかと思われたが、ぶつけられた茜の自転車に加害車両のものと思しき塗料が微量ながら付着していたことと、健介が車を停めてきたコンビニに防犯カメラが設置されているため、その映像を解析すれば捕まえられる可能性が出てきたらしい。自転車に付着した塗料を採取するために警察が預かることになり、壊れたままパトカーの後部座席に積み込まれていった。
「幸いにして骨は折れていないようですが、捻挫しているようですので、このまま病院へ搬送します。どなたか救急車に付き添いで乗車していただきたいのですが……」
警察が2人に話を聞いている間にはもう救急隊員の診察も済み、搬送先の病院まで決まっていた。直接的に車両と接触したわけではないのが幸いし、骨折まではしていないようだ。
「すみません、私は一人暮らしをしているので、誰も付き添いできる人がいないんですけど」
茜は大学入学を機に実家を出て一人暮らしをしている身であり、付き添いで救急車に乗ってくれるような人は身近にはいない。
「だったら、俺が付き添おうか。ただ、俺は自分の車で来ているから、救急車に同乗するんではなく、搬送先の病院へ直接向かう形でいいなら、だけど」
すると、横で話を聞いていた健介が条件付きながら付き添いを買って出てくれた。
「ええ、我々としてはそれでも構いません。幸いにして、命に関わるような重篤な患者の搬送というわけでもありませんから。本来ならば付き添いはご家族の方がベストなんですけど、いらっしゃらないのならばやむを得ません。病院は明柳総合病院なので、よろしくお願いします」
「え、あの、村岡さん……でしたよね。いいんですか? 気が動転していた私を助けていただいただけでなく、全くの赤の他人の病院にまで付き添ってくれる、って……今日はどこかへお出かけになるところではなかったんですか?」
救急隊員は健介の主張を受け入れて搬送先の病院を伝えた。それに驚いた茜が健介に訊ねると、
「ああ、コンビニに買い物しに出かけただけだから大丈夫だ。それに、助けるんなら最後まで面倒を見る、それができないなら最初から手を差し伸べたりしない、それが俺のモットーだからな。じゃあ、俺は自分の車で病院へ向かうから、また後でな」
健介は大きく頷くと、コンビニに置きっぱなしになっていた自分の車へ小走りで駆けていった。
搬送された病院で改めて診察を受けた結果、茜のケガは左足首の捻挫だが、幸いにもそこまで重度のものではないとのことだったので、湿布と包帯をこまめに交換し、なるべく安静にしているよう申し付けられた。また、しばらくの間は歩く際には松葉杖が必要なようだ。
「おう、終わったか? すまんな、やっぱり救急車の移動力には勝てなかったわ。道は混んでるわ信号に引っかかるわで、すっかり遅くなっちまった。付き添いできなくて、悪かったな」
茜が処置室を出ると、ようやく病院に到着したらしい健介が待合室のイスに腰掛けていた。茜が出てきたことに気づくと、苦笑いを浮かべながら付き添いができなかったことを謝罪してきた。
「そ、そんな、村岡さんが謝る必要なんてないじゃないですか。赤の他人である私なんかのために、ご自身のプライベートを割いてまで病院まで来てくださっただけでもありがたいくらいです」
いきなり謝られたことに茜はまた驚き、わたわたと手を振りながら答える。
「おいおい、“なんか”なんて言うなよ。事故に遭ったのは災難だけどよ、車にぶつけられて捻挫と擦り傷だけで済んだんだ、ラッキーだと思おうぜ。まあ、何はともあれ帰るか。あのあたりで事故に遭ってた、ってことはほぼ帰る方向は一緒だな。ほら、家まで乗っけてやるから、ついてきな」
健介は妙に自分を卑下したようなネガティブ発言をする茜を嗜めると、ポケットから車のカギを出し、病院の玄関へ向けて歩き出す。少し歩いてから茜が呆然としていてついてきてないことに気づくと、再び苦笑いを浮かべて歩み寄る。
「どうしてここまでしてくださるんですか?」
慣れない松葉杖でひょこひょこ歩く茜のハンドバッグを代わりに持ち、歩くペースを合わせてゆっくり進む健介を見上げて訊ねると、
「そうだな、理由としては2つだ。ひとつはさっきも言ったが、手を出すなら最後まで面倒を見る、っていう俺のモットーがあるから。もうひとつは、通りがかったときに少しだけ見えたあんたの顔が可愛かったからだ」
健介が答えた理由に、茜の顔が瞬時に真っ赤になった。言った健介本人も照れて顔を赤らめているが、言われた茜のほうは完熟トマトよりも赤かった。
「え、ちょ、可愛い、って……そんな、ことは……」
ど真ん中に投げ込まれた豪速球な言葉に茜の脳はオーバーヒート状態になって戸惑うしかない。まして健介が「可愛い」と評したのはケガの痛みで顔を歪めていると思われるシーンなので、余計に納得がいかないのだろう。
「…………」
「…………」
結果として、なんとなく2人の間に気まずい沈黙が流れ、健介の乗用車にたどり着くまで、一言の会話も起らなかった。
「……それで、あんたの家はどの辺なんだ?」
茜が助手席に乗り込むのを手伝ってあげてから、健介も運転席に乗り込み、エンジンをかけながら彼女を送る先である家の場所を訊ねる。
「えっと、西松町にあるサクラ荘ってアパートなんですけど、わかりますか? 事故に遭った国道と並行して走る裏道沿いにあるんですけど」
ここまでしてもらった以上、家の場所を教えることはもう躊躇う必要はなかった。
「ああ、あそこだな。わかった」
茜が挙げたアパート名で健介はすぐに場所が浮かんだようだ。頷きひとつ返すと、ゆっくりと車を発進させた。
「ここだな、サクラ荘ってのは? それで、何号室だ? 松葉杖突いてるから、バッグ持つの大変だろう」
車を走らせること約30分。1軒の古びたアパートの前で車が止まる。健介はすぐに運転席を出て、助手席側のドアを開けに行く。茜が降車するのを手伝いながら、本当の意味で最後まで面倒を見るため、部屋番号を訊ねる。
「えっと……203号室です」
茜自身も、部屋が2階であちこちサビの浮き出た鉄製の外階段を上ることを考えると、健介の厚意を断る選択肢はなかった。
「なに、2階か!? それだと松葉杖突いてもあぶねえな。――よし、こうしよう。俺があんたを背負って2階の部屋まで行くから、あんたは自分のバッグだけ持ってくれ。松葉杖も俺が持ってやる」
部屋が2階にあることを聞いた健介はすぐさま作戦を変更し、茜を背負って部屋まで行くことを提案した。もっとも、一応、提案という体裁を取ったが、安全を考えるなら事実上強制とも言える。健介は茜がおぶさりやすいように、背中を向けてしゃがんだ。
「何から何まで、ありがとうございます……」
救いの手を求めていた茜の想定以上の手助けをしてくれる健介に恐縮しきりながらも、礼を言って背中におぶさる。
「じゃあ、ゆっくり立ち上がるから、掴まっててくれよ。……よっ、と」
茜が背中におぶさったのを確認すると、健介はゆっくりと立ち上がった。松葉杖を拾いつつ、茜を落とさないように微調整を行う。
「重くないですか?」
「大丈夫だ、軽い軽い。じゃあ、動くぞ」
軽々と茜を背負って立ち上がった健介が無理をしていないか訊ねると、健介は笑いながら答え、ゆっくりと歩き出す。微細な振動でもケガをしている足に響くかもしれないから、とまるで壊れ物を扱うかのように歩き、普通に歩けば1分とかからないであろう2階の部屋までの移動に3分をかける、徹底ぶりだった。
「よし、着いたぞ。後はゆっくり休むんだな。じゃあ、俺の役割は終わったから、これで帰るな」
健介はさすがに部屋に上がり込むのまでは気が引けたので、玄関で茜を下ろし、松葉杖を立てかけると、踵を返して部屋を出ていこうとした。
「あ、あのっ!」
玄関のドアノブに手をかけ、開けようとしていた健介を、茜は慌てて呼び止めた。
「どうした、何か忘れ物でもしたか?」
やけに切羽詰まったような声に、ドアノブに手をかけたままの姿勢で顔だけ振り向いて健介が訊ねると、
「今日は本当に何から何までありがとうございました。ケガが治ったら、になりますけど是非お礼をさせていただきたいので、連絡先を教えていただけませんか?」
茜は壁に手をついてゆっくりと立ち上がりながら、健介の連絡先を求める。
「気にすんな。別に俺は見返りが欲しくてあんたを助けたわけじゃない。だから、礼なんてその気持ちだけで十分だ。それじゃあな。あまり無理すんなよ。足、お大事にな」
健介は礼は不要、と連絡先を教えることを拒み、手をひらひらと振りながら茜の部屋を出ていった。