雨と砂
「お前なんか、あたしのサンドバッグになってればいい!!」
それが私が初めて聞いた母親という存在から発せられた言葉だった。
「スナちゃん、スナちゃん、あっちに紫陽花がたくさん咲いてるよ!」
薄暗い雨の日に傘をさしながら私に向かって佳奈は元気な声を発する。
うん、見てるよ。とても綺麗。
佳奈にしか聞こえない声で私は言った。佳奈は私の声を聞いて嬉しそうに笑う。
「雨の日のお散歩好きだな。誰もいなくて。じゃないと、スナちゃんと気兼ねせずにお喋り出来ないもの。」
佳奈はそう言いながら、傘の柄をくるくると回した。私も人気のない景色を楽しもうと回りを見たが
佳奈、前から人が来てる。少し遠く。
私の言葉に佳奈の傘の回転が止まる。顔を前に向け何事も無かったかのように歩き始めた。
しばらくして前から来た二人とすれ違う。一人は30代くらいの優しそうな女の人、もう一人は五歳くらいの小さな女の子だった。どうやら二人は親子のようだ。雨の日なのに手を繋いで歩いている。
その二人がかなり佳奈の後方に進んで、周りに誰も居ないことを確認した。
もう平気だね。誰もいないよ。
私が声を掛けたが、佳奈からは反応が無かった。
どうしたの?佳奈?
「スナちゃん……。」
ん?
「さっきの子供、お母さんと一緒だったね。」
……うん。
「スナちゃん、私のお母さんってどんな人だったの?」
佳奈のお母さん。そして、私の母親に当たる人。あの人を形容するのは難しい。
私の記憶の中のあの人はいつもお酒を飲んでいて、泣くか喚くか暴れるかしていた。
幼い佳奈はあの人の被害者だった。まだ、分別のつかない子供をあの人は罵ったり、殴ったりしていた。
佳奈は日の当たらない薄暗い部屋で、いつも膝を抱えて泣いていた。
私はそんな佳奈の姿に耐えられなかった。私は佳奈を薄暗い部屋から、更に日の当たらない場所へと隠した。
そして、私は佳奈になった。
精神分裂病とか統合失調症とか私を説明するならそんな名前。だけど、当時はそんな事分からなかった。
ただ、私は佳奈を守りたかったんだ。
そして、私は母親のサンドバッグになった。私と佳奈の体から痣が消えない日は無かった。
ある日、母親は死んだ。酒に酔って四階のアパートのベランダから落ちた。自殺か事故かは分からなかった。
やっとあの人から解放されたと私は安堵した。
だけど、佳奈は違ったみたいだった。
「スナちゃん、お母さんはどこ?」
佳奈は母親を求めて探し始めた。
最初は母親が急死して気が動転しているだけかと思ったが、違った。
佳奈の記憶には母親に殴られた記憶も、罵られた記憶も無かった。
佳奈の母親もずっと子供に辛くあたっていた訳ではない。時にはご飯を作ってくれたり、一緒に買い物に行っておもちゃを買ってくれたりもした。佳奈にはそういう記憶だけが、薄ぼんやりとした輪郭のように残っていた。
佳奈にもうお母さんはいないんだよ。と言うと狂った様に泣きはじめる。
私は母親が憎かった。あんな風に佳奈に辛くあたっていたのに、その記憶だけが佳奈の中から消えて、まるでかけがえのない存在であるかのように佳奈の中に残っている。
悔しくて、痛かった。
だけど、佳奈をこれ以上苦しめたくはなかった。
私は佳奈のために嘘の物語を作って語った。おとぎ話の様に美しく優しい母親の話を。その母親は子供をとても愛していて、子供の為なら命さえ惜しくないと平気で言いそうな母親の話を。
「ねぇ、スナちゃん。私のお母さんってどんな人だったの?」
いつものように佳奈が尋ねる。
とても優しい人だったよ。いつも、佳奈の事を考えていた。
私の言葉に佳奈は嬉しそうに笑った。
佳奈が笑っていてくれるなら私は死ぬまで嘘を貫き通し、物語を紡ぎ続けよう。佳奈が母親から貰えなかった愛情を私が全部あげるから。だから……。
暖かい風が佳奈の傘を持ち上げた。見上げるとさっきまでの雨が嘘だったかのように空が晴れていた。
「わー、綺麗な空!」
佳奈が楽しそうに声をあげた。その声に私も嬉しくて自然と笑みが溢れた。
誰よりも幸せになれ。と心の中で空に祈った。