奥底
暗く閉ざされた回廊。
深く光の届かない監獄。
希望など存在しないそこには、唯々、咎人どもの呻き声だけが不気味に上がっていた。
そんな希望など欠片もないはずの奥底に、極々小さな光が現れた。
カッカッと石畳に何者かの足音が響く。
何者かが明かりを携えて牢獄の底に向かっているのだ。
腰に吊されたランタンの炎によって、薄暗いが確かにその者の姿が映し出される。
若い男だ。二十代後半ほどの白髪の美丈夫。
仕立ての良い着物を着崩して纏い、左手で煙管を咥え、右手で十手を弄んでいる。
「――ふっ」
口から紫煙が吐き出された。
煙は周囲の闇に紛れて広がっていく。
「……」
男は無言で周囲を一瞥すると再び煙管を咥えて、回廊の奥へ進んで行った。
ここは監獄の最下層。
禁忌を犯した大罪人が封じられる牢。
男はこの監獄の管理者であり、この最下層の最奥へと向かっていた。
闇の中、男はランタンの微かな光を頼りに歩みを進めていたが、しばらくすると唐突に立ち止まり、懐から黒い歪な形状の鍵を取り出す。
「……」
男は無言で何もない空間に向けて鍵を刺すと、突如として目の前に扉が出現する。
鍵を捻ると扉は音を立て独りでに開いていった。
「ふっ。相も変わらず胸糞悪い」
男が吐き捨てるように呟くと同時に、扉の奥から禍々しい瘴気が流れ出してくる。
“常闇の精霊”の闇の靄とは異なり、黒煙と毒ガスが合わさったような見るからに有害そうな瘴気を浴び、男は不快そうに紫煙を吐き出す。
「この様子じゃ全く懲りてないようだな」
男は形の整った眉を歪め、不快さを隠そうともせずに、瘴気の発生源を睨みつけた。
――ガシャッ。
男の言葉に応答するように、闇の中から金属が擦れるような音が響いてくる。
「目覚めていたのか……」
男は煙管を懐にしまい、腰に吊るしていたランタンを目の前の闇へ突き付けた。
すると、ランタンの光が闇を消し去らんと輝きを増していき、一つの人影を照らし出す。
「……」
闇の中に潜んでいたのは黒い女。
いや、潜んでいたというのは正しい表現ではない。女は全身を拘束されていた。
身体の至る所を鎖や枷で戒められていて、目や口、耳までもが複雑な方陣が描かれた拘束具で覆われている。唯一露出している部分は、その伸び放題になっている長い髪だけである。
また、この者を女性を判断したのは、その手入れをしていないのにも関わらず艶やかで濡れ羽のように美しい髪と、鎖で覆われているのにも関わらずにその存在を主張し続けている胸部からである。
「封印された貴様が何故、今さら?」
「……」
男の問いかけに、女の口元が微かに動く。
正確には、拘束具により彼女の口を見ることをできないが、微かに口元を覆う拘束具が動いたのだ。
「――――」
「それを貴様が知る必要はない。俺の質問に答えろ」
目も耳も拘束具により閉ざされているにも関わらず、女は男の声が聞き取れるようであり、男もまた女が何を伝えようとしているか理解できるようだ。
例え意思疎通が不可能であったとしても、彼に拘束具を外すつもりはないようだが。
「――――」
再び女の口元が動く。
――――そんなこと、訊くまでもないことでしょう?
拘束具のために声が響くことはなかったが、女は確かにそう言った。
「――ッ、てめえ……」
挑発するような物言いに、男は怒りを隠そうともせずに十手を拘束具に覆われた女の左目に突き付ける。
「クソがッ! 貴様の罪はッ、決して許されざる大罪だ。決して犯してはならない禁忌を破っておいてッ!」
怒気を孕んだ罵声染みた咆哮が放たれる。
しかし、女は特段気に留める様子もなく、拘束具で隠された口元を歪ませた。
「ッ!」
女の嘲りとも取れる行動に、白髪の男は反射的に携えた十手を振り下ろす。
――キンッ
振り下ろされた十手は吸い込まれるように女の顔を捉え、高い金属音と共にその顔を覆っていた拘束具の右半分を弾き飛ばした。
そして、今まで拘束具によって隠されていた彼女の素顔が半分だけだが露わになる。
「ありがとう。息苦しかったのよ、それ」
始めて黒い女が声を響かせた。
露わになった肌は陶器で造られたような艶やかで美しく、黄昏を彷彿させる神秘的な瑠璃色の瞳を晒しながら、嘲りと狂気が混在したような歪な笑みを湛え、女は小馬鹿にするように偽りの感謝を告げた。
「――っ!」
思わず得物を叩き込んでしまった男は、自身が乗せられていたことに気付き顔をしかめる。
「こんな安易な挑発に乗るなんて、あなたも相変わらずね」
「っ、黙れ!」
続けて呆れの言葉を吐き出す女に対し、男は自身の迂闊さへの怒りと、それをよりにもよってこの拘束された女に指摘されてしまった羞恥により顔を真っ赤にして声を荒げてしまう。
「黙らないわよ。外が面白そうなことになっているのに、ここからでは見ることすらできないのよ? 久しぶりのお喋りぐらい付き合いなさい――ローシュ」
「――黙れ……その胸糞悪い口を閉じろ」
ローシュと呼ばれた男から凍り付くような冷ややかな言葉が吐き出される。すると、その言霊に応答するように、周囲の熱が急速に奪われていき、牢内の気温が一気に氷点下まで低下していった。
しかし、女が笑みを絶やすことはなく、彼の威圧を物ともせずに話を続ける。
「さっき面白いモノが入ってきたみたいね。彼はどうしたの?」
「てめえが知る必要はねえ」
「口調がおかしくなってるわよ。いや、そっちがあなたの本性だったわね」
「――」
彼の瞳から光が失われる。
再び十手が振り上げられた。
「――死ね」
一切の感情が喪失した完全なる虚無の表情で十手が振り下ろされる。
狙うは剥き出しとなった右目。
直撃すれば眼球どころか顔を丸ごと打ち砕けるだけの威力が込められているのにも関わらず、女は心底愉快そうに口元を吊り上げて嗤う。
「――っ、おっと」
十手が彼女の瞳に激突する寸前で止まる。
「……くっ、魅入られるところだった」
ふと何かを思い出したように冷静さを取り戻したローシュは、不機嫌さ隠そうともせずに女から眼を逸ららす。
「あら。惜しい」
残念そうに呟いた言葉とは裏腹に、女は不貞腐れるローシュを眺めて楽しげな笑みを浮かべていた。
「……貴様と話していても時間の無駄だな。いや、そんなこと分かり切ったことか」
「ふふっ、拗ねない、拗ねない。あなたは根が素直で純粋。だから、私を許すことができない。だから、私の言葉に踊らされてしまう」
「ぶっ殺すぞ」
女は出来の悪い弟でも宥めるかのように微笑むが、それが気に入らないローシュは純粋な殺意のみが籠められた眼光を放つ。
「ふふっ、本当に変わってないのね」
しかし黒い女は、そんなことを気にも留めないようで、微笑みを湛えたままローシュを見詰める。
「もういい……どのみち、この牢獄から脱獄することは不可能だ。貴様が日の光を拝むことは永久に無い」
何をしても無駄だと悟ったのか、ローシュは煙管を咥え、溜息まじりに紫煙を吐き出す。
「――戒めろ」
「あら――」
彼が煙管を蒸かしながら呟くと、先ほど弾き飛ばされた拘束具が独りでに動き出し、喰らいつくように女の顔に飛び掛かり、その露出していた部分を覆い隠した。
拘束が完了したことを確認すると、ローシュは紫煙を吐きながら静かに外へ向かう。
彼が牢の外に出ると、堅牢な扉が独りでに閉まっていった。
「閉じろ」
――ガチャッ
回廊に鍵のかかる音が響く。
「ちッ、ほんと変わってねえ」
ローシュは再び込み上げてきた怒りを紫煙と共に吐き捨てる。
「おー、荒れてるねー」
ローシュがこの場から立ち去ろうと踵を返したとき、先の暗闇からこの場には似つかわしくない陽気な声が響いた。
「まー、あいつが相手だしねー。荒れるのも無理ないかなー」
声の主が音もなく闇の中から姿を現す。
「うん。しょうがないよね!」
現れたのは漆黒の外套に身を包んだ真紅の瞳を持つ少女。
見た目は十代前半ぐらいだが、その容姿は精巧に造られた人形ように美しく整っていて、妖しく輝く瞳と相まって、幼い顔立ちながら独特な色気を醸し出している。
「何の用だ、アンヤ。わざわざこんな所まで?」
どうやらローシュはこの少女とは顔見知りのようで、特に警戒することもなく、先ほどとは打って変わって親しみの籠った声音で尋ねる。
「ここは暗くて居心地がいいよねー。明るい所はあんまり好きじゃないんだ」
しかし、アンヤと呼ばれた少女は、ローシュの言葉を聞いていなかったのか、のんびりと伸びをしながら大きな欠伸を咬ます。
「ふぅにゃ~、心地が良くて眠くなってきた」
「ふっ、相変わらずマイペースなヤツだ」
ローシュは紫煙を吐きながら、ウトウトしているアンヤを見て笑みを浮かべる。
「おー、笑ったねー。そっちの方がかっこいいよ」
アンヤもまた、柔らかい表情になったローシュを見て満面の笑みを浮かべる。
「そりゃどうも。で、何の用だ?」
「あー、そうだった」
アンヤは肝心な要件をすっかり忘れていたようで、今思い出したと言わんばかりに目元を擦って眠気を飛ばす。
「緊急招集だよ、ローシュ。場所は雲海の円卓で、他のみんなも全員ね」
眠たげだった様子が一変し、真剣な表情になったアンヤがその要件を告げると、ローシュは訝しげに眉をひそめて煙管を口から離した。
「招集の内容は“例の件”についてのことだろうが、全員っていうのは、あの引きこもり女や飲んだくれも来るってことなのか?」
「うん! その二人も強制だよ。あっ、でも“セツちゃん”は今動けないから、彼女を除いた十二人だね」
ローシュが尋ねた二人は、彼らの中でも滅多に招集されることがない(されても応じない)問題児だ。その二人まで強制的に招集するということは、今回の一件は余程重要な事なのだと、わりと楽観視していたローシュは認識を改める。
「なるほど、分かった。すぐに行く」
「うん! よろしくね! 僕は連絡が取れない“フウちゃん”を呼んでくるから、また後でね!」
監獄の中とは思えないような明るい笑顔を浮かべ、アンヤはまるで初めからそこに存在しなかったかのように何の前触れもなく忽然と消えていった。
その突然の出来事に対し、ローシュは特に驚いた様子もなく煙管を口にして一服する。
「……」
吐き出された紫煙が闇の中に溶けていく。
「“六血”が動き出したか――」
どこか懐かしい感覚が全身に広がった。
時計の秒針がゆっくりとだが確実に進み出したような何とも言えない不思議な感覚。
始まりであると同時にもう決して後戻りはできない。
「――楽しみだ」
ローシュは不敵な笑みを浮かべて、吐き出した紫煙と共に闇の中に溶けていった。




