永久の闇と神鳴る光
「ソーマ……」
“常闇”なる精霊は、魔術師の名を復唱する。
本来なら教えるつもりなどなかったが、真羅にとって“魔術師の名を告げる”という行為は、ある種の儀式としての役割を果たしており、“正体を知られたからには確実に始末しなければならない”という意味合いを込めた宣戦布告である。
「小手調べは終わりにしよう」
魔術師の人差し指が、“常闇”を名乗った精霊に向けられる。
「お前には効かないだろうが……宣戦布告として受け取れ」
指先から呪詛が放たれた。
――指差しの魔術。
呪詛を指先に凝縮して放つ、初歩的で基礎的な呪術。
放たれた呪いの塊は、寸分違わず常闇の心臓部に直撃する。
「あら、随分気の利いたプレゼントね」
通常なら呪詛が直撃した時点で、対象の心臓を停止させてしまうのだが、彼女は平然と笑みを浮かべる。
元より真羅も精霊に呪いが効くとなど思ってはいない。
「ああ、遠慮せずに持っていけ――」
――パチンッ。
人差し指を突き出したまま、真羅は親指と中指を合わせて音を鳴らす。
「――全部な」
――光が降り注ぐ。
何の前触れもなく、上空から眩き閃光が雨の如く。
一瞬のことであったが、閃光が直撃する直前、常闇は展開していた闇を衣のように纏い、降り注ぐ光の雨からその身を守る。
降り注ぐ光の絨毯爆撃は、闇に呑みこまれようともお構いなしに、周囲ごと吹き飛ばし、派手な爆炎を巻き上げる。
しかし、その爆発も闇に阻まれてしまい、ダメージを与えることはできない。
「あら? もう終わり?」
光が降り止み爆炎も晴れると、闇の精霊が衣を解除して、余裕たっぷりに尋ねてくる。
「まさか。上をよく見てみろ」
しかし、真羅も特に焦る様子はない。
常闇は僅かに訝しむような表情でおもむろに空を見上げる。
「あら……」
上空にあったのは、金色の輝きを放つ無数の魔法陣。
天を覆うように展開された魔法陣の群れは、遠目でも分かるほど濃密な魔力を含んでいて、とても魔術を放った後とは思えない。
『――――術式変換』
呟かれた言葉は、相変わらず呪文とは思えぬほど短く、詠唱とは思えぬほど淡々としている。
しかし、その言霊は確かな力を有していたようで、上空に展開されていた魔法陣が解け、結びつき、一つの巨大な魔法陣を形成した。
『――天雷、増幅、収束』
金色の光から青白い雷が生じる。発生した雷は紡がれる呪文に合わせて爆発的に増大すると、魔法陣の中心に収束していく。
『――落ちろ』
最後の呪文が唱えられる。
そして――
――――――――ッ!!
音無き雷鳴が轟く。
天より稲光が輝く。
神鳴る稲妻が、巨悪を撃ち滅ぼさんと、闇の権化に向けて放たれた。
「無駄よ」
常闇は再び闇の衣を身に纏い、迫りくる落雷を受け止めようと身構える。
一拍遅れ、青白い稲妻が闇の衣と激突する。
雷と闇は激突の後、僅かに拮抗するも、それもすぐに崩れ、闇が雷を呑み込み始めた。
「さっきの雷といい、貴方、なかなかの使い手ね。でも、この程度だと私には届かないわよ?」
放たれた魔術を受けながら、常闇は余裕を崩すことなく、真羅に不敵な笑みを送る。
「そういうことは防ぎ切ってから言うと良い。その慢心は命取りになるぞ?」
悔しげな顔をしていると思いきや、同じく不敵な笑みを返してきた魔術師に対し、闇の精霊は不服そうにムッと口を尖らせる。
その童女のような仕草は、闇の権化には似つかわしくない愛らしさがあり、健全な男子をドキッとさせるのに十分な威力を持っていたが、健全でも真っ当でもないこの男魔術師は全くの無反応だ。
その間にも青白い雷は、着実に闇の衣に呑み込まれていき、物の数秒で完全に呑みこまれてしまった。
「あら? ご覧の通りに防ぎ切ってしまったけど」
今度こそ勝利を確信した常闇は、会心の(不敵な)笑みを浮かべる。
しかし、魔術を破られたにも拘らず、目の前に佇む魔術師が笑みを消すことはなかった。
「ああ、言い忘れていたが――」
おもむろに魔術師の口が開かれる。
「――それは自然現象の雷じゃない」
「………? 何が言いたいの?」
先ほどの雷は魔法によって生み出されたものだ。当然のことだが、それは自然に発生したものではなく、彼が意図的に造り出したものだ。
今さらそんなことを言う魔術師の意図が分からず、闇の精霊は呆れと疑問の入り混じった声を出してしまう。
「“雷”ではなく、“神鳴り”。人の耳では聞き取ることのできない、神の轟き」
――バチッ!
突如、常闇の纏っていた闇の衣に異変が起こる。
「聖なる神鳴りは不浄に伝導する」
闇の衣の各所に雷光が弾ける。
呑み込まれて消滅したはず青白い稲妻が、闇の中を爆発的に広がっていったのだ。
「な――ッ!?」
雷光を認識した瞬間、常闇は真羅の言葉を理解する。
しかし、もう手遅れだ。
闇の中で勢いを増した雷が、文字通り雷の速度で闇の衣を伝わっていき、それを纏っている常闇本体に到達する。
「――がッ、――――ッ!!」
防ぎ切ったはずの雷を浴びせられ、闇の精霊は困惑したまま、声にならない絶叫を上げる。
真羅の魔術が初めて痛手を与えた。
「慢心したな、精霊」
光の雨では闇の衣を破れぬことなど、真羅は重々承知していた。
元より光の雨は、“聖なる神鳴り”に繋げるためのモノであり、単に牽制や足止めのために放ったわけではない。
先に放った魔術を敢えて防がせることにより、真羅の魔術は闇の衣で十分対処できると誤認させ、本命である次の高位魔術を確実に受けさせる。
どんなに強力な魔術でも、当てることができなければ効果はない。特に常闇のような実体が捉え難い相手には、狙いが付け難い。
光の雨の最大の目的は、神鳴りを避けさせないための囮である。
いや、光の雨が神鳴りを当てるために囮ならば、先の名乗りと指差しも次に繋げるための囮だったといっても過言ではない。
「まったく……勝利を確信して、悠長に聞いているからそうなる。おかげで何の障害もなく神鳴りが届いた……」
幾ら神鳴りが不浄なるモノに伝導するとはいえ、精霊などの高位存在が対象の場合は、その神秘性に妨害されて瞬時に広がることができない。
わざわざ、“聖なる神鳴り”について解説したのは、その時間を稼ぐためである。
「慢心し過ぎ――いや、油断のし過ぎだな……」
挑発するような呟き(本人にそのつもりはない)も、聖なる神鳴りによってその身を焼かれている常闇の耳には届かない。
人間の寿命とは比べ物にならないほどの長い年月を生きてきた常闇だが、このような痛みは今までに感じたことがない。
それもそのはず。彼女を蝕んでいるのは、この世界の魔法ではなく、異世界の魔術なのだ。
それも対邪霊の神聖魔術を、真羅が独自の技法で改良した、ランクⅥ相当の高位魔術。
階位でいえば“シュケルの赤雷”に劣るも、対人用である赤雷と、対邪霊用の神鳴りでは用途が異なる。相手が高位の精霊であろうと、邪悪な神秘性そのものを削ぎ落とす力を持っているため、低位魔術崩壊が起きたとしても、完全に術式が崩壊する前に闇の神秘を削ることができる。
今の彼女は耐性のない猛毒を呑み込んでしまったような状態だ。毒が全身に回るまで時間が掛かるが、毒は少しずつ着実に蝕んでいく。如何に自然回復が起こるとはいえ、高位魔術師である真羅によって織り編まれた魔術は、そう簡単には解けない。
それに加えて、闇の精霊と、聖なる魔術。相性など言うまでもなく最悪であろう。
「まあ、完全に滅せるなんて驕ってはいないし、しようとも思っていない。貴様は貴重な試料だからな」
湛えていた笑みは消え失せ、何の色も宿らなくなった顔で、平然と高位精霊を実験試料扱いする。その姿はまるで、多くの物語で登場する悪の魔法使いのようだ。
真羅にとって、異世界の精霊のサンプルを手に入れられることは大変喜ばしいことのはずだが、彼の顔は何も映されていない。
――相手がいないのならば、表情など出す必要がない。
今この場で誰かが問うたのならば、彼はこう答えるだろう。
この世に生を受けた際、真羅は感情というモノを有していなかった。いや、正確には、人間性が欠落していたといった方が正しい。
本来、人間というものは、生まれつき“喜怒哀楽”のような基本的な感情が備わっている。そして、成長していくにつれ、人はより複雑な感情を形成していくのだ。
しかし、生来から人間的な感情を持ち合わせていなかった真羅は、その基本的な感情すら後付けだ。必要がないと判断すれば、すぐに素の非人間的側面を晒してしまう。
「内部に到達したな……」
無表情まま、懐から透き通った美しい水晶を取り出し、常闇に向けて放り投げる。
『――無垢なる檻よ。邪霊を誘え』
色褪せた平坦な声音で、呪文が唱えられる。
すると、その呪文に応答するように、透明な水晶から目を開けていられないほどの強烈な光が溢れ出した。
「……」
数秒後、眩き光が収まると、先ほどまで悶えていた常闇の姿も跡形が消えていた。
そして黒い水晶が、リンッと鈴のような音を立てて地面に落ちる。
「封印完了」
常闇を封じた水晶がフワッと浮かび上がり、独りでに真羅の左手に飛んできた。
疑似とはいえ常日頃から精霊を扱う彼にとって、邪霊の封印など朝飯前だ。
「呆気なさ過ぎる……」
僅かに警戒を孕んだ呟き。
今朝の夢は何だったのか?
この程度で終わってしまうのならば試練でも何でもない。
(この程度で封じられる霊格だとは思えないが……)
注意深く黒くなった水晶を観察するも、特に不自然なことは見当たらない。
真羅からすれば、この封印は相手の耐性を試すために行ったことであり、この程度で片が付けられるなどとは考えていなかった。
「本当にこれで終わりか?」
順調に事が運び過ぎている。
何か違和感を覚えた真羅は、おもむろに黒くなった水晶を手に取り、夕日に翳して中を覗き込んだ。
「……」
水晶の中のは、封じられた闇が広がっている。
既に日は沈みかけているが、水晶の中に見るのには十分な明るさだ。
何もおかしなことはない。
「……ん?」
真羅は唐突に、黒い水晶を放り投げた。
この行為に深い意味はない。敢えて理由を付け加えるのならば、何となくだ。
ただ何となく、水晶を手にしていてはいけないと、真羅の直感が囁いた。
――シュッ。
何かが宙を舞った。
――人の手だ。
誰かの右手が宙に舞っていた。
ふと何故か右手に違和感を覚えたため、視線を下げる。
真羅の右手の部分が喪失していた。
「――何?」
鮮血と共に冷たい声が漏れる。
切断された真羅の右手が、血を撒き散らしながら地面に落下する。
「あら? 手が取れちゃったわね」
背後から聞き覚えのある嘲笑が響く。
「………」
真羅は無言のまま、静かに後ろを振り返る。
「貴方、思っていたより脆いのね」
そこには封じたはずの常闇が悠然と佇んでいた。
「………」
真羅は先ほど放り投げた水晶に視線を向ける。
しかし、水晶には何の変化もない。先ほどと同じく黒く染まったままだ。
「……なるほど」
事態を把握したのか、真羅は目を鋭く細め、嘲笑を浮かべる常闇を睨みつけた。
「あら? 怒ったの?」
その行為を怒りによるものだと判断した常闇は、笑みを浮かべたまま真羅を挑発する。
しかし、彼の心情は、彼女の想像とは懸け離れていた。
「封じたのは闇の衣だけ。封印される直前に衣を脱ぎ捨てて身代わりにしたのか。そして、気配そのものが薄いお前は、封印の際の光に紛れて隠れた――」
そう、この魔術師の頭の中は怒りではなく、神秘への探究心で埋め尽くされていた。
「――俺の魔術は確実に伝わっていた。だが、全身に広がる前に呑み込まれた。いや、広がり切る前に式を形成する魔力が尽きた、という表現の方が正しいか」
“聖なる神鳴り”の術式は、確実に常闇本体を捉えていた。不浄を焼き尽くす神鳴りは、確実に彼女の霊体に流れていた。
しかし、彼女の全身に伝わる前に、魔術の方が先に力尽き崩壊した。
「人の形をしてるくせに、中身はまるで違う。全貌がまるで把握できない。ブラックホールか何かを相手にしている気分だ……」
触れたもの全てを呑み込み崩壊させる闇。光すら呑み込む“ソレ”は、真羅の例えた通り、ブラックホールという表現が的確だろう。
「――いや。敢えて言葉にするなら、“闇”そのものといった方が正しいか……」
“闇”とは、光が全く射さない状態、光を反射する物が何もない状態を指す。つまりは、何もない“無”を意味している。
しかし、この世に完全なる虚無というものは存在しない。そこには人が認識できないだけで、必ず“闇”が存在している。
この常闇と名乗った精霊は、まさにその“闇”そのものだ。
人間では決して見ることは叶わず、知る術すらない完全なる闇に包まれた存在。
「お前は自分で名乗った通りに、“常闇”そのもの。|永久《とこしえ》の闇の化身。一度呑み込まれたら、二度と出ることの敵わない底無しの闇」
真羅が導き出した答えは、ごく単純で明確。
精霊“常闇”の正体は“常闇”という概念の化身。
言葉にしてしまえば簡単だが、“永久の闇”という人間には認識できないモノが、霊格を得て精霊化したのが彼女の正体だ。
「……それで? そんな分かり切ったことを再確認してどうするの?」
挑発するような物言いだが、常闇の声は幾分が冷たく鋭くなっている。
ただ言葉にした程度では、完全に神秘を解き明かしたとは言えない。
しかし、常闇は確信していた。
この魔術師が自身の本質に手をかけてしまったということに――
「確かにな。これだけじゃ、ただお前の名前を再確認しただけだ」
魔術師の顔に笑みが浮かぶ。
相手を挑発するような不敵さと、未知なるものへの純粋な好奇心が入り混じった歪な笑みだ。
「だから、暴き尽くし、解き明かす」
その双眸に光が灯る。
瞳に宿るは、夜明け前の薄明。
闇夜に終わりを告げる旭光は、既に射しかかっている。
黄昏を迎えていた世界の中で、真羅の瞳だけは夜明けを迎えようとしていた。
しかし、闇の化身である彼女はそれを許さない。
「それは無理よ」
――ドッ!
濃密な闇が広がる。
常闇から溢れ出した闇が、濁流のように辺り一帯を呑み込んでいく。
「人の姿を捨てたか……」
人の形を捨て、闇そのものとなった常闇は、全方位から真羅に向けて茨を象った闇を放ってくる。
(――ッ! 見えないッ)
咄嗟に複数の障壁を展開するも、全てを防ぎ切ることは叶わず、魔術をすり抜けた茨が真羅の首筋を切り裂いた。
「――かッ、はっ」
真っ赤な液体が飛び散る。
真羅は直感で身を反らし、喉元への直撃こそ避けていたが、首筋には深い傷痕ができている。
(低位魔術崩壊! 精霊に包まれた影響で術式が解れたのか)
本来なら、あの程度の茨で、真羅の魔術障壁を破ることはできない。
しかし、精霊という高位の神秘に包まれている影響で、ソレよりも低位の神秘である魔術が解けてしまい、障壁が十分な効力を発揮する前に崩壊していたのだ。
この状況で魔術を起動できただけでも、真羅の魔術の腕が並外れて優れていることを証明しているのだが、それを称賛してくれる者はこの場にいない。
仮に称賛されたとしても、魔術師にとってこの場が非常に遣り難い状態であることに変わりはない。
『――魂よ、宿れ。生命よ、芽吹け』
真羅は神威家の固有魔術を発動させた。
明確な勝算がない状況で、固有魔術を使うことは憚れるが、今は出し惜しんでいる場合でない。
「何をしようと無駄よ」
何処からか常闇の声が響く。
目では見えないが、闇が不気味に蠢いているのが分かる。
しかし、そんなことは気にも留めず、真羅は新たな魔術を紡ぐ。
『――銀の腕。偉大なる戦神は、戦場へと舞い戻る』
呪文を紡いでいる間にも、獣の顎を象った不可視の闇が真羅に襲い来る。
「闇に呑まれなさい」
『――――戦神の銀腕』
闇の獣を光り輝く銀色の右拳が迎え撃つ。
ケルト神話に於ける最高神ナザァは、戦場にて片腕を失ったことで王位を退いた。しかし、生命と医療の神であるディアン・ケヒトによって作られた銀の義手を身に付けることで、再び戦場へと舞い戻ったのだ。
この銀腕は、この逸話を元にした魔拳であり、拳を失った状態でこそ、その真価を発揮する稀有な魔術。
闇の獣と魔拳が激突する。
しかし、その拮抗も束の間で崩れ、銀の腕が闇の獣の顎を打ち砕いた。
拳そのものが魔術と化しているため、他の魔拳と比べて術式が複雑だが、その分威力は折り紙付きだ。
それにこの魔術は階位Ⅶと、魔拳の中では最高位に位置づけされている。長時間持続させるのならともかく、そう簡単に低位魔術崩壊では崩れない。
『――輝き弾けろ』
間髪入れずに、新たな呪文が唱えれる。
銀の腕は獣の顎を砕いた後、さらに輝きを増し、そのまま光を撒き散らしながら爆散した。
爆発的に広がっていく光は、闇の中において一層に輝きを増していき、常闇に包まれた世界を照らしていく。
しかし――
「言ったでしょ? 何をしようと無駄だって」
闇はすぐさま弾けた光を片っ端から呑み込んでいき、再び光の届かない真っ暗な空間に戻される。
「この闇の中では、全てが無意味」
一切の光の射さない闇の中では、方向感覚すら曖昧になる。
地面に足を付けているはずなのに、上下の区別すら判断が付かない。
「当然、魔法も意味を成さないわ」
突如、鋭い刃のようなモノが真羅に襲い来る。
密かに防御魔術を展開していたのだが、その不可視の刃の前ではまるで意味を成さず、呆気なく破壊されてしまう。
「――ちッ」
そして、防御を貫いた刃は、そのまま真羅本体を襲い、その身体に無数の切り傷を作っていく。
『――纏まり、固まれ』
しかし、真羅も黙ってやられるつもりは毛ほどもない。
負けじと懐から取り出した試薬瓶を残った片手で蓋を開け、短い呪文を唱えながら、その瓶を逆さにして中身を溢す。
すると、中から出てきた銀色に燐光する液体が、真羅を包み込むように広がり、蕾を象った形状になる。
『――咲き誇れ』
続けられた短い詠唱。
銀の蕾は花弁を開き、大輪の薔薇が咲く。
そして、その薔薇の周囲には、無数の茨が伸びていて、まるで生き物のように蠢いている。
「――銀、の花?」
何処からか響いてきた常闇の疑問が、真羅の耳に届く。
「“水銀”だよ。これは……」
水銀。常温で液体となる唯一の金属。
錬金術に限らず、幅広い分野で重宝されていた水銀だが、当然このように暗闇で燐光するという性質は持ち合わせていない。
そもそも、あらゆる光を呑み込んでしまう、この闇の中で輝いている時点で、この水銀が真っ当なものではないことが分かる。
『――乱れ、廻れ』
花弁が散り、茨が四方へと飛び散る。
暗闇の中で銀に輝くそれらは、どこか幻想的で思わず眺めてしまうほどの美しさがある。
思わず花吹雪に目をやってしまった精霊の影で、魔術師はその双眸を輝かせていた。
「――ライゴウ!」
その言霊は、呪文にしては何か違和感を覚えるものであり、誰かの名前を叫んでいるかのような不可思議な響きだった。
常闇の形のない耳がその言葉を捉えたときには、すでに真羅の人差し指から何かが解き放たれていた。
「――っ?」
手応えがあった。
実体がないのにも関わらず、闇からは困惑が窺える。
「あ、当たった? 闇であるこの私に!?」
真羅から放たれた何かは、形のない常闇に直撃した。
未だ彼女の姿は、無定形な闇のままだが、その一撃は確実に届いた。
「これはっ?……爪?」
相変わらず何処から声を発しているのかは不明だが、彼女が口にした通り、真羅が放ったのは残っている左手の人差し指の爪だ。
それも何の魔術も付与されていない普通の爪。
「えっ、ただのツメ?」
自らに突き刺さったモノの正体が、何の変哲もない爪であることが分かり、より一層の困惑に陥る。
「何をそんなに驚いている? ただ密度が高かった場所に当てただけだぞ」
「……何を言ってるの?」
魔術師の肉体の一部とはいえ、実体のない闇に直撃させるなど、本来なら起こり得ないことだ。
何らかの魔術が籠められているのならまだ分かるが、ただの爪が形のない闇を捉えてしまった。
「まあ、俺の爪はちょっと特殊だがな」
常闇が困惑していることを感じ取り、真羅は自虐的に呟く。
彼としても、この手段を用いるのは不本意なことのようで、追い詰められたから止むを得ず使用してしまった、とでも言いたげた。
「本当に何の細工もないただの爪のようね」
常闇は突き刺さっていた爪を念入りに調べると、そのまま闇の中へ呑み込んでしまう。
「私に当てたのは褒めてあげるけど、こんなもの効きはしないわよ?」
「ああ。だが、当たった。つまり、お前は無敵ではない」
真羅は嘲るように笑った。
お前は完璧ではない。ただの爪如きで捉えられる程度のモノだと。
自身を無敵だと思っているのなら、それはただの思い上がりだと。
「………決めたわ」
常闇の今までにないほど冷ややかな声が響く。
「何を?」
笑みを絶やさぬまま、真羅は軽い口調で訊ねる。
「貴方の殺し方を、よ」
「――!」
今度は真羅が困惑する。
言葉の内容にではない。この声が響いた位置にだ。
「貴方は生きたまま、全身を侵してあげる」
何故なら、この声は彼の耳元で囁かれていたからだ。
形のない常闇の声は、闇全体から発せられるように、全方位から響いていた。
しかし、今の声は、真羅の右耳のすぐ傍から聞こえた。
「……」
息を呑み、おもむろに声の主に方へと振り向く。
「覚悟はできているわよね?」
目と鼻の先。いや、本来なら右手があるはず位置に彼女は在た。
嗜虐的な笑みを浮かべ、御馳走を前にした捕食者は、獲物の頬を優しく撫でながら、自らの唇を舐める。
「……まさか」
真羅は常闇がこれから何をしようとしているのかを理解する。魔術師としての経験がその解答を導き出してしまう。
「ええ、そのまさかよ」
抵抗する間もなかった。
心の中を読んだかのような声が聞こえたときには、すでに始まっていた。
常闇は、右腕の切断面から、真羅の中へと入り込んでいたのだ。
「っ、憑りつくつもりか! やめろッ!」
幾重にも張り巡らせていおいた守りも、この高位精霊の前には無力だった。
咄嗟に傷口を残っている左手で塞ごうとするも、形なき常闇を捉えることはできず、容易に体内へと侵入されてしまう。
「……」
周囲を覆っていた闇が晴れる。
いや、晴れたのではない。闇は余すことなく、彼の体内へ入り込んでいた。
「………」
黄昏を迎えた世界の中、朽ち果てた森の中で、一人の男が立ち尽くしている。
彼は今、生きたまま内側から闇の精霊に食われているのだ。
肉体ではなく、精神と魂をだ。
こうなってしまえば、もはや彼の命は助からないだろう。
「………ふっ」
しかし、立ち尽くした魔術師の口元は、不敵に吊り上がっていた。
まるで、イタズラが成功した子供のように――
――ようこそ、俺の世界へ。




