遭遇
草木が生い茂げ、動物たちが駆け回る手付かずの自然に満ちた地。ここは人々にとって不可侵の場所であり、精霊たちが住まうと云われる神聖な領域だ。
そんな森の中、一つの人影が木々の合間を縫うように駆けていた。
この世界では珍しい黒い髪。容姿は中性的で端麗だが、何処か得体の知れない独特の雰囲気を纏っている。その口元は楽しげに吊り上がっているが、その表情と裏腹に、神秘的な瑠璃色の瞳は、まるで仇敵を見据えているかの如く鋭い眼光を放っている。
異世界に召喚された魔術師――神威真羅は、木々などの障害物を物ともせず、精霊の森の中を駆けていた。
濃密な霊力に満たされて、豊富な魔力が湧き出るこの地は、常人には害になりかねないが、魔術師である彼にとっては、実に行動しやすい環境だ。たとえ、一日中絶え間なく魔術を行使し続けたとしても、この森の中ならば何の問題もないだろう。
何せそこら中に魔力が溢れているのだ。仮に自身の魔力が尽き掛けたとしても、周囲には世界の魔力が豊富にあるので、通常の魔術ならば問題なく行使できるだろう。それに霊力が非常に濃密な以上、魔術法則などの神秘的な法則が強くなり、魔術の連続行使による物理法則の崩壊がそう簡単には起こらないため、事象の安定化を待つ必要もなくなる。
「そろそろか……」
一度だけ瞬きをすると、瞳が瑠璃色から元の黒色に変化する。
魔眼を解除し、駆けるのをやめて立ち止まると、手頃な樹木の上に飛び乗り、隠形の魔術を使って身を隠した。
(この気配は……怪異、いや邪霊?)
先ほど真羅たちの感じた気配の一部が、この場に近づいていた。気配だけではソレの正確な正体は掴めないが、ソレが何らかの悪しきモノだということは、はっきりと解る。
「ラムル。何か見えるか?」
《ああ、何か胸くそ悪い黒い靄みたいなのが見えるぜ》
「黒い靄?」
傍で霊体化しているラムルに問いかけると、形容的によく分からない答えが返ってくる。
銃の精霊であるラムルは、五人の御遣い型疑似精霊の中で、最も視力に優れている。おそらく、彼女が見た“黒い靄”が、その気配の正体とみて間違いないだろう。
しかし、黒い靄のようなものといっても、具体的に何なのかは分からない。黒い靄という単語から連想できるのは、黒煙やスモッグだが、この近くで山火事や工業地帯のようなものは見当たらない。
向こうの世界には、砂塵や煙などを発生させて相手の目を晦ます魔術は存在するが、広域に展開しているのならば、目くらましが目的ではないだろう。
こちらの世界にも、闇や土属性を代表に目眩ましの魔法は存在している。例えば、魔人族との戦闘の時に快斗が使った闇属性魔法の“ダークヘイズ”は、漆黒の靄を発生させて相手の動きを封じることができるが、この感覚は闇属性魔法とは異なるため、魔術とは考えにくい。
(何であれ、実際に見ないことには分からないか……)
真羅は懐から紋様の描かれた双眼鏡のようなものを取り出して、その黒い靄を探し始める。
「どの辺に見える?」
《靄の先端は、ここから北西に二キロぐらいのところだ》
ラムルの示した方角を探ると、すぐにその黒い靄とやらを見つけることができた。
「……何だ、あれ?」
実際に視認できたものは、ラムルが言った通り“黒い靄”としか例えられないナニカだった。黒煙やスモッグとは明らかに異なるものであり、あれが自然に発生したものとも考えられない。自分が知らない闇属性魔法の可能性もあるが、魔術師としての直感が、あれが魔術とは異なる神秘であると告げている。
「あれは……凝り固まった呪い。いや、怨念や憎悪というより、悪意の塊か?」
少なくとも真羅の眼にはそう映った。アレからは他人への怨恨や怨嗟といったものは感じられず、純粋な悪意のようなものがハッキリ見える。
他者を害し犯そうとする悪性の塊。確かにこれは見ているだけで気分が悪くなるものだ。いや、常人には気分を害するどころか、傍にあるだけで精神に影響を及ぼしてしまう。しかも、あの瘴気は触れた部分から徐々に侵食していき、人間ならば物の数分で全身を壊死させてしまうほどの強力な呪なので、もし誤って触れでもしたら大変なことになるだろう。
「取り敢えず、サンプルを採取しとくか」
《あれをか? まったく、シンらしいな》
ラムルが呆れまじりに苦笑を浮かべるが、真羅の探究心はその程度では止まらない。
真羅は懐から試験管を取り出すと、逆の手を前方に翳し、
『――繋げ』
呪文というには余りにも短い一言だったが、その詠唱の後、彼の掌前方の空間にマンホールぐらいの穴が開く。その穴はどうやらあの黒い靄の傍に繋がっているようで、中からは黒い瘴気が見えている。
彼はその穴の中に、何の躊躇もなく試験管を自身の腕ごと突っ込むと、瘴気を掬うようにして引き抜き、その試験管に蓋をした。
《大丈夫ですか?》
霊体化して体内に宿っているエルマが、真羅の身を案じて声をかける。しかし、この程度で彼が止まることはない。
「問題ない。むしろ、この程度なら心地いいぐらいだ」
そう不敵に笑みを浮かべると、真羅はエルマの心配を無視するように、腕に付着した瘴気を舌で舐め取ってしまう。
「これは……やっぱり悪意の塊だな。でも人間のとは違う。これは誰か特定の者に向けたものではなく、不特定多数に向けられたモノだ。邪霊……いや、悪魔のものに近いな」
瘴気を口にしたにも係わらず、真羅は何事もなかったように、それの分析を始める。本来ならば、触れた時点でアウトなのだが、この男は平然とするどころか、楽しげに笑みを浮かべながら、興味深そうに試験管の中を眺めている。
「あの靄を見る限り、見境なく拡がっていくのではなく、何かを辿るように一定の方向に進んでいるな」
試験管を眺めながら、片手に持っていた双眼鏡の縁を軽くなでると、その双眼鏡の紋様がわずかに光り輝き、瞬く間に双眼の顕微鏡へと変形してしまう。真羅はその顕微鏡のステージに、試験管の中身を少しだけ移すと、その場でその靄の観察を始めた。
「霊力の濃い方に進んいるな……この元凶は精霊でも狩るつもりなのか? まあ、ともあれ、そいつは余程性根の腐ったサディストだろうな」
顕微鏡を覗いたまま、真羅は冗談交じりに呪の主を推測する。
霊力とは、魔術という神秘を成り立たせるのに重要な要素であり、神秘法則を成立させている力である。つまりは、《神秘を成立させる要素》であるため、霊力が濃いということは、それだけ神秘性が高いということを意味している。そのため、精霊などその存在自体が神秘的であるものは、ただそこに在るだけで、その場の霊力を濃くしてしまうのだ。
この瘴気の靄が霊力の濃い方に進むようになっているのならば、精霊のような神秘的な存在を狙って放たれたものだと推測することができる。だが、精霊という存在は、その多くが人智を越えた力を有しているため、対処法を心得ている者でなければ制することができない。
もっとも、神秘は“神のみぞ知る秘密”、つまり“人の手に触れられることがないもの”であり、その環境を断ってしまえば、精霊というものは存在が保てない。
かつての地球は神秘に満ちていた。しかし、文明が発展していき、手付かずだった自然が切り開かれていくと、自然の神秘の具現である精霊たちは、その存在を保つことができず、徐々にこの世から姿を消していってしまった。
もし仮に、これが精霊を狙ったものならば、倒せる保証のない精霊の跡を追うよりも、この瘴気を森全体に拡散させて、この場の環境そのものを破壊してしまった方が簡単で確実だ。
わざわざ追い詰めるように残滓を辿っているのは、この元凶の性格が歪んでいる証拠である。
「だが、本当に悪魔の類なら、有り得なくもない。奴らは非常に嗜虐的だ。自分が愉しければ、意味のないことだろうと平気でやるだろう。しかし、それなら――」
真羅は顕微鏡のステージから靄を元の試験管に戻しながら、ブツブツと自らの考察を呟いている。
普段は人間社会に溶け込むために、普通の高校生(?)を演じている彼だが、神秘関連のことになると、人目も気にせずに本性を現してまう癖がある。そろそろ、化けの皮が解れかかってきているが、本人は隠す気がないのでどうしようもない。
幸いなことに、ここは周囲に人の目がはないので、然程問題はないが、とても今の真羅を人前に出すことはできないだろう。
《ん?》
真羅が試験管を振りながら眺めていると、ラムルが何か訝しむような声を漏らして実体化する。
「どうした? 何か見つけたのか?」
「ああ、一瞬だけど、靄の近くに何か人影のようなものが見えた」
「こんなところに? 魔物か何かじゃないか?」
真羅は試験管の中身を観察したまま、どうでもよさそうに答えるが、ラムルは実体化したまま目を細め、その正体を探るべく、その人影を注意深く眺め始めた。
「ここは距離があるからいいが、力を使うのは控えてくれ。霊力を濃くしてしまえば、アレがこっちに向かってくる可能性がある」
「分かっているさ。でも実体があった方が見やすいんだ」
「そんなに気になるのか?」
「気になるっていうより、妙に胸騒ぎがするんだ」
精霊の覚える予感は、人間のものとは異なり、何となくや経験からくるものではなく、確実に何らかの要因があって起こる現象だ。人工的に創られた疑似精霊とはいえ、ラムルが精霊である以上、その胸騒ぎは気のせいでは済まされないだろう。
「――っ、見えたぜ!」
先ほど人影を捉えたラムルが声を上げて知らせる。
「どんなヤツだ?」
相変わらず試験管を見ている真羅だが、ようやくその人影に関心を抱いたようで、自分からラムルに訊ねた。
「たぶん人だ。でも人間とは感じが違う」
「特徴は?」
「髪はやたら綺麗な金髪で、肌は地球の一般的な白色人種より白い。性別は見た感じ女だ。装備は軽装で、弓を持ってる。動きからすると結構な手練れのようだが、体力はかなり消耗しているように見えるな」
真羅は言葉数少なく訊ねるが、それに慣れいるラムルは、特に不満を感じることなく人影の正体を暴いていく。
「あっ。よく見ると耳の形が人間と違って尖ってるな」
「尖った耳か……そうなると魔人族か?」
ラムルの見つけた人間とは決定的に異なる特徴に、真羅は先ほど戦った魔人族を思い浮かべる。
先ほどの魔人たちの耳は、地球の於ける西洋の悪魔を連想させるような尖った形状をしていた。しかし、それだけではなく、彼らは全員が浅黒い肌を持っていて、中には同じく悪魔を連想させるような角や翼、尻尾を持つ者もいた。
これらのことから考えると、その白い肌の女が魔人族だと断定するのは難しい。別に二人が知らないだけで、魔人族にも白色人種のような者が存在するかもしれないが、この場においてそれを知るすべがない。
知識を司るディアならば、それを調べることができるかもしれないが、あの黒い靄がある以上、この場で彼女の能力を使うことは得策ではない。
「いや、たぶん違うぜ。さっきの魔人の耳とも違って、葉っぱみたいな形をしてる」
「葉っぱ?」
言葉だけでは判断できないと、ついに真羅は試験管から目を離し、顕微鏡を双眼鏡に戻してその人物を探り始めた。
すると、程なくしてその葉っぱ耳の人物を発見する。その人物は、ラムルの言った通り、美しい金髪と透き通るような白い肌で、耳もまるで周囲の木々に生い茂っている葉っぱような形状をしていた。正確な年齢は分からないが、見た目で判断するなら、恐らく十代後半ぐらいだろう。無論、彼女が普通の人間だった場合の話だが。
「なるほど。魔人とは印象が違うな」
真羅は双眼鏡を覗きながら、先ほどのラムルの所見に納得する。
確かに、その女性の雰囲気は、魔人族とは異なる趣きで、魔人族を神に仇なす魔術師に例えるなら、彼女は神殿で祈りを捧げる巫女のような印象を与えてくる。
「しかし、長くは持たないだろう。どういった経緯でこんな所にいるのかは知らないが、あの様子では逃げ切れない。たとえアレが相当な手練れだったとしても、あの靄に呑まれればそれで終わる……呪療師でもない限りな」
「……まあ、そりゃそうだわな」
真羅の告げた非情で的確な分析に、ラムルは半ば呆れるように同意する。
この男はどこまで行っても魔術師だ。自身の目の前で、無情にも一つの儚い命が散ろうとしているのに、彼の中には助けるという選択肢が存在しない。この状況を打破するだけ力を持っているのに、彼は動こうとはせず、あくまで観察に徹しようとしている。
だが、それも仕方ない。だって、彼は“人”ではないのだから――。
《ねえねえ~。それで、どうするの?》
ラムルが頭を掻きながら、逃げている女性を眺めていると、早くも厭き始めていたルビアが、退屈そうに真羅の中から念話を出した。
御遣いの中で、最も幼い容姿をしているルビアは、性格もその見た目相応なものをしている。邪気というものが一切存在せず、天真爛漫を絵に描いたような活発な少女であるが、その分、ジッとしているのが苦手で、落ち着きがないという短所もある。観察や事務など地味な作業の際に、彼女は大人しくしていられず、こうしてよく念話を飛ばしてくる癖があるのだ。
「いつも通り、観察して、分析して、実験して、真実を得る」
《うう~、またそれかあ~。 つまんないよー!》
恰も当然の如く放たれた真羅の簡潔な答えを聞き、ルビアは駄々っ子のように、霊体のまま彼の体内で暴れ始める。
「落ち着け、俺の霊体基が歪む」
《つーまーんーなーいー!》
真羅の制止の声も聞かず、ルビアは尚も暴れ続ける。
彼女ほどの高位精霊が体内で暴れているため、真羅の霊体の基盤が歪み始めるが、彼は特に気にした様子もなく、双眼鏡を覗き続けている。
本来なら、霊体基に傷が付くことは、普段から神秘に触れている魔術師にとってもかなりの重症だ。どれだけ優れた魔術師であったとしても、専門的な心霊治療の心得でもない限り、そう簡単に治せるものではない。
《あらあら、こんなところで暴れては駄目よ。ルビアちゃん》
《大人しくしなさいッ。真羅の霊体に罅が入ってしまいます!》
《うー、放せー!》
見かねたエルマとフィルが、真羅の霊体内で駄々を捏ねているルビアを取り押さえる。しかし、御遣いの中で最も近接戦闘に優れるルビアが相手では、二人がかりでも完全には押さえ切れない。
「おい、静かにし――うっ」
いい加減に鬱陶しく感じてきた真羅が、今度は制止を命令しようとしたとき、ルビアが押さえている二人を振り払おうと、体内で神威を爆発させた。
幸いにも、神威はもともと真羅の力のため、霊体には問題がなかったが、その衝撃により、彼の体から少量だが濃密なエネルギーが漏れ出してしまう。
「あっ……今ので見つかっちまったみたいだぜ」
「だろうな」
逃げている女性を見ていたラムルが思わず声を上げ、真羅も呆れ混じりの溜息を漏らす。
あの瘴気は、霊力の濃い方に進行する性質を持っている。魔術師が簡単な術を行使したぐらいならば、さほど影響はないが、疑似とはいえ精霊が力を放出したのだ。当然、ここの霊力濃度は上昇する。
「葉っぱ耳を追ってた靄の一部が、こっちに向かって来てるぜ」
「知ってる」
この中で唯一真面目に観察していたラムルの報告に、真羅は頭を掻きながら短く答える。
観察に徹すると決めた傍からこれだ。いつも通りと言えばいつも通りなので、怒りは覚えないが、愚痴ぐらいは言いたくなる。
《まあっ。それは大変ね》
《ルビア!》
《う~。だってぇ~》
真羅の霊体内では、全く大変そうではないエルマと、怒り心頭のフィルの前に、ルビアが口籠りながら縮こまってしまう。
これもいつも通りの心象だ。
「まあ、予想通りではある。何の問題はない」
「殺るのか?」
何処か吹っ切れたように笑みを浮かる真羅の横顔を見て、ラムルは獰猛な笑みを浮かべる。
「……いい。お前は戻ってくれ」
「……チッ。ちゃんと残しておいてくれよ」
魔人族との戦いだけでは、まだまだ不完全燃焼で暴れたりなかったラムルだが、如何にも不満そうな仏頂面を浮かべながらも、大人しく霊体化して真羅の中に戻った。
彼女は粗暴な面も目立つが、根は素直で聡明だ。真羅の口数の少ない言葉でも、その意味を察することぐらいは容易くできる。
「俺の中で騒ぐのは構わないが、手出しはするなよ。アレには確かめたいことが多い」
そう言って、いつもの不敵な笑みを張り付けると、真羅は木の上から跳び、双眼鏡をしまいながら、ゆっくりと地面に降り立った。
「さて、始めるか」
場違いなほど落ち着いた空気を纏い、異端の魔術師は静かに歩を進め出した。




