歩み
目を開けると白い荒野が広がっていた――。
薄っすらと輝くそこには、一見すると何も無いように見えるが、何か大切なモノがあるようにも見える。
決して光が強いわけではないが、不思議と眩く感じられる。
目を開けていられないほど眩しいわけではないが、思わず直視するのを躊躇ってしまう。
夢の中のように朧気だが、何故か現実以上に明瞭だ。
――気が付くと、私はそこに立っていた。
ここが何なのかは、私自身がよく理解している。
目を背けたくなるが、決して背けてはいけない。その行為は自身の存在を否定してしまうのと同義だ。
そう、ここは私――神威星華の歩み――私が今まで歩んできた道であり、これからも進んで行く“道”そのものである。
そして現在、星華が見ているのは、自身が今まで歩いたきた道程である。
必死に突き進んできたこの道は、自身の未熟さを思い知らされているようで、今の私から見たら羞恥を覚えてしまう。だが、不思議と温かく懐かしい。
ふと、気配を感じて振り返る。
人影が見える。遥か彼方、目を凝らさなければ見えないところに、一人の黒衣が背を向けて佇んでいた。
この距離では、おぼろげにしか見えないが、その背中には見覚えがある。
風になびいている少し長めの黒髪。独特の刺繍が施された漆黒の魔術用礼装。揺るぎない意志を体現するかのような、澱みなき魔力を纏うその立ち姿は、紛れもなく私が目標としている神威真羅のものだ。
「兄さん……」
思わず声を漏らしてしまう。何故、行方不明になっている兄が、このような場所にいるのか?
問いかけようと口を開こうとしたが、真羅は力強い足取りで先に進んでいってしまう。
「あっ、まって……」
兄さんを追いかけようと足を前に出した。しかし、踏み出した途端、突風が吹いたかと思うと、突如体が重くなった。
だがそれも当然のことだ。この道は私の歩みそのもの。これ以上先は、未来に歩むはずのものだ。今の私では、進むことはできない。
しかし、この遥か先を真羅は当然の如く歩いていく。
「まって、お兄ちゃん!」
思わず幼少の頃の呼び方で呼んでしまう。しかし、真羅は歩みを止めることなく、確かな足取りで進んでいく。
体は重くなったが、足は問題なく動かせる。どうやら今の私でも、この先を見ることぐらいは可能のようだ。
それだけ確認すると、兄の背中を追って走り出す。
足を踏み出す度に体が重くなっていくが、兄の背中を見失わないように懸命に前に足を進める。
「はあ、はあっ」
身体が重い。息は乱れ、肺が酸素を求めて悲鳴を上げるが、徐々に強くなってきた風がそれを阻む。それでも、次に足を止めたら、今度こそ兄の姿を見失ってしまう。
たとえこれが夢だったとしても、今、真羅を見失ったら、もう二度と見つけることができなくなる。理屈ではなく、魔術師としての本能がそれを告げてる。
進むにつれ、風は強くなっていき、前に進むことを妨げる。
進むにつれ、体は重くなっていき、足を前を出すことを妨げる。
それでも歩みを止めるわけにはいかない。
ここで諦めるわけにはいかない。
だが、夢とは残酷なものだ。
「まって……」
――真羅には追いつけない。
今の私では追いつくことはできない。それも当たり前のことだ。彼はすでに遥か高見にいるのだから……。
「諦めるわけには……いかない!」
折れそうになった心を奮い立たせて、石のように固まっていた足を前に出す。
真羅は歩みは止めないが、歩速は一定でそれほど速くない。これなら追いつくことは不可能ではないはずだ。
『――我が枷を取り払え』
己の歩みの結晶たる魔術。これしか彼に追いつく術はない。幸いなことに、この世界でも魔術の行使は可能なようで、先ほどまで歩みを阻んでいた暴風と重しが取り払われる。
地面を蹴って前に進む。速度を上げて先に進む。
「これなら!」
徐々に真羅の背中が近くなってきた。
距離にして約百メートル。
『――加速』
魔術を重ねてさらに速度を上げる。
真羅までの距離は五十メートルまで縮まる。
「兄さんッ!」
悲鳴にも似た叫び声を上げ、力の限り手を伸ばす。
残り十メートル。
――届いた。
あと一歩。それだけでついに真羅に手が届く。
しかし、夢とは本当に残酷だ。
「――ッ?」
突如、視界が揺れる。力が抜けていく。
力が入らない。糸が切れた人形のように、静かに白い地面に倒れていく。
――いったいなにが?
現状を何一つ理解することができない。分かるのは、自分が倒れて動けないことと、目の前に兄である真羅の背中が見えるということだけだ。
「――お、おにい……ちゃん……」
力の入らない口を無理やり動かして声を絞り出す。
この暴風の中ではこんな擦れた声など届かないだろうが、それでも諦めるわけにはいかない――いや、諦めたくない。
身体を動かすことはできないが、せめて見失ってなるものかと、悔しさと悲しみで濡れた瞳だけは、真羅の背を見続ける。
すると、その視線に気付いたのか、真羅は体を前に向けたままだが、静かにこちらを振り返った。
「――星華。今の君ではそこから先は進めない」
魔術師は一見しただけで、全てを理解したかのように、ごく自然と私に事実を突き付けてきた。
「――うっ、う」
涙が溢れてくる。
やっぱり私じゃ無理なのかな……。
「いや、無理じゃないさ。ただ、今の君が届かないだけ……」
残酷な事実の前に泣き崩れてしまった私に、真羅は穏やかな顔で、正しい真実を送ってくれた。
「ここから先に往くためには、“神威”を扱えるようになる必要がある」
「神威……」
それは神威家の一族が秘める力。そして、私には扱うことのできない力だ。
そう、私はその力を使うことができない。幼い頃から鍛練しているのにも関わらず、行使するどころか認識することすらできないのだ。
「そう深く考えることはないさ」
未だにその片鱗すら掴むことのできない自身の未熟さに失望しかけていると、その心情を見透かしたかのように、兄は普段見せることのない屈託のない笑みを浮かべていた。
「神威の行使は、君が思っているほど難しいことじゃない」
真羅の掌に神秘の極光が顕れる。
「創造を想像しろ」
掌の極光から翼が出現する。
「俺たちは、幻想を生命にできる」
極光は翼を広げる鳥の姿に変化し、真っ白な空へと飛び立って行く。
「神威の一族は、神の威を借りるのではなく、神の威を創り出す」
突如、視界が歪む。夢が崩れていく。
「“魔力”は己の望みを叶える力。“神威”は己の想いを体現する力」
視界が朧気になっていき、身体の感覚が薄れていく中、その言葉だけは明確に響いてきた。
「このことを忘れるな。そうすれば、その想いは必ず届く」
最後に私の眼が捉えたのは、穏やかな笑みを浮かべながら再び歩き出していく真羅の後ろ姿だった。




