彼はヒトーさん。ぼくが知る限り、この寮で一番の古株。
『山田荘』
わたしが新生活を始めるはずだった場所だ。わたしが生まれる前からある物件で、叔母さんが管理している。ちょうど近所のお役所に就職が決まったので、一部屋貸してもらう予定だったのだ。そこには従兄弟のはじめ君も住んでおり、そこから近くの高校へと通っていると聞いていた。
引っ越しの荷物を送る前に、一度だけ案内してもらったことがあった。もともとは木造の古い物件だったらしいが、思い切ってリフォームをしたらしく、『荘』というよりは『メゾン・ド・山田』みたいなきれいな印象だった。コンビニも近くにあり、銭湯にも歩いていける。職場までは自転車があれば無理のない、最高の立地条件だった。家賃も身内のコネで安くしてもらった。
『ただ~、彼氏は連れ込んじゃダメ! はじめもいるしね』
『もーやだー、おばさんったら!』
『結婚式にはちゃんと呼んでよ~?』
『もー、気がはやーい!』
「殺す……」
「戦闘民族かなんかなんでしょうか、九十九さん」
「ひょん君、まだかなー、目的地!」
「二重人格なんですかね……」
肩に乗せたひょん君の指示にしたがって、公園から数ブロック進んでいった。街は東側から明るくなっていき、何処からか鶏の声が聴こえる。ようやく、朝。4月の一日だ。さて、早朝だからか、公園からここまでほとんど人には会わずに来てしまった。当初気づいたような店舗名や看板の違和感はあるものの、思っていたほどの異世界ではない。魑魅魍魎が跋扈するような魔界状態でなくて、本当に助かった。
途中の自動販売機で買った(硬貨は従来のものが使えた)、缶コーヒーを飲みながら、カーナビよろしくひょん君の示す方向へと歩を進める。ニギミタマートとかいうコンビニを曲がり、大きな道路を道なりに、ある程度進んだところで住宅地の中に入っていく。方向音痴で有名なわたしだったが、たしかにあのとき叔母さんに案内してもらった道順のようだ。
「管理人が永く不在にするようでしたので、九十九さんを住まわせついでに管理人を継がせたいとのことでした」
「家賃が入るということ!?」
「……まぁ、そうですね。その代わり諸々のトラブルが――」
「いよっしゃー、不労収入ゲット!」
「あ、見えてきましたよ!」
見れば、住宅地のどまんなかに一際大きくそびえ立つ白いマンションがあった。この世界では、叔母さんのリフォームがだいぶ気合入っていたようだ。『メゾン・ド・山田』というよりも、『シャトレーヌ・グランシャリオ・山田』って感じの建物だった。
「おっしゃれー!」
「あ、それではないです。あっちあっち」
見れば、いまにも崩れ落ちそうな木造三階建てのアパートがあった。『シャトレーヌ・グランシャリオ・山田』の看板が頭のなかでボロボロと崩れていき、『お化け屋敷』の文字列が脳裏に浮かぶ。
「……ここ?」
「ええ」
「あっちじゃなくて?」
「あれは『シャトレーヌ・グランシャリオ・田中』です」
「……合ってたのかよ」
奇跡の無駄遣いである。
「ってそうじゃなくて、なにこれ、廃墟なの?」
「あなたが一国一城の主となる、その一城ですが」
「あっちじゃなくて?」
「あれは『メゾン・ド・加藤』です」
「あのボロいの?」
「ええ、あのボロいの」
わたしはあまりのショックに珈琲の缶を取り落としてしまった。吐くのはさすがにこらえた。さすがに三回目ともなるとシャレにならないからね。この世界の叔母さんはわたしに管理人を押し付けたばかりか、リフォームも全然していないというのか。
「あんまりだ。いやでも不労所得が手に入るのであれば……」
「全部駄々漏れですけど」
ひょん君がわたしの肩の上で立ち上がり、ため息をついた。
「ぼくがあそこのボロアパートの座敷童なんです」
「座敷童の皇帝なのでは……」
わたしの呆然とした質問に彼は答えようとしなかった。一分、二分、わたしが茫然自失していたのはどれくらいだったのだろうか、気が付くと、そのボロアパートの一階のドアが、ギィィィとお化け屋敷めいた音で開くのがわかった。
「住人?」
「ええ、この時間なら――」
がしょん、がしょん、と鎧を着た大男が中から出てきた。西洋風の甲冑で、ゲームでしか見たことがないようなものだ。しかも何故か首にネクタイを巻いている。サラリーマンなんだろうか。手には剣ではなく、ぱんぱんに膨れ上がったビジネスバックを持っている。随分疲れているようで、そのせいかはわからないが、鎧も若干煤けている。
うーん、無駄にファンタジーっぽいけど、いやに現実的なそれだ。
「彼は飛頭さん。ぼくが知る限り、この寮で一番の古株。おーい、飛頭さん!」
きっちり鍵までかけた飛頭さんとやら大きな甲冑の人が、こちらを振り返る。
「ひょん殿。こんな朝早くからどうなされた?」
武士か。西洋の甲冑なのに。
「新しい管理人さんを連れてきたから紹介します!」
がしょんがしょんと飛頭さんが歩いてくる。随分な重量のようだ、中は熱くはないのだろうか。というか何を警戒しての鎧なのか。もしかしてこの世界の住人はみんな鎧を着て歩いているとか!? 人見知りが爆発して目線を泳がせているわたしに、肩に乗っているひょん君が呆れたようにため息をついた。
「こちらが山田九十九さん、この寮のことは飛頭さんが一番詳しいから、何かあったら聞くといいと思うよ。あ、でも、あんまり寮にはいないから、タイミングのあったときにね」
「ドーモ。よろしくお願いしたい。小生はサラリーマン故なかなか早くには帰ってこれぬが、手助けになれることなら喜んでしたい」
随分な巨漢の方のようだ。バイザーのようなもので表情は伺えないが、こうして近くでみるとかなり見上げなければならない。あのボロアパートでは体格的に困ってしまうこともあるんじゃないだろうか。
「は、はじめまして。フツツカモノですが、よろしくお願いします!」
鎧の首の部分がわたしの脚元から頭のてっぺんまで確認するように動き、彼はひとつ頷いた。
「たしかによく似ている、あのフェッセンデンの魔――」
「おーっと、飛頭さん、そろそろ出社のお時間では!?」
ひょん君が何かを遮るように声を荒らげた。鎧に無理やり巻きつけられた腕時計を確認し、彼は急ぐ素振りを見せる。
「そうであった、では九十九殿、失礼させていただく!」
「あの、お仕事がんばってくださいね」
「これはこれはご丁寧に」
と、彼はサラリーマンめいた感じで後頭部に手を当てて、お辞儀をしようとしたとき、事件が起きた。なんと、彼の甲冑の頭部がそのままポロンと落ちてしまったのだ。カランカランと地面で音を立てる兜。一方、いままでその兜があった部分はというと――。
「おろろろろろ」
「ああ、彼はデュラハン属だから、彷徨う鎧みたいなさ――、すごいね、マーライオンみたいだよ、九十九さん。第一印象がゲロなんてすごいことをするね」
「だ、大丈夫だろうか、九十九殿!?」
彼はよくあることのように、サッカーのリフティングの要領で自分の首を蹴りあげて、胸でトスし、頭に嵌める。空いている方の手で頭部を嵌めたようだが、それでも若干ぐらついている感は否めない。
「九十九さんはぼくが看ているから、飛頭さんは早く会社に急いで」
「し、失礼する!」
玄関に止めてあったボロいママチャリにまたがって、その巨漢の鎧そのものの存在は出社していった。すなわち一日目の朝である。わたしはかれこれ三回目の嘔吐を果たしてしまい、現実処理能力がまったく追い付いていない状態だった。
「なにあれ、生命なの?」
「この世界でそれは非常に差別的な発言ですよ?」
「ふぁい、気をつけます……」
うずくまるわたしの肩から飛び降りたひょん君は、ボロアパートを指さして、さあ、行きましょうという雰囲気でわたしを見上げてきた。なにしろいまからわたしが管理しなければならない建物の玄関に盛大にゲロを吐いてしまったので(一応弁明しておくが、もうほとんど固体物の残っていない、非常にきれいなやつだ)、まずはこの掃除をしないとな、と思いながら、ふらつく脚で立ち上がった。
「さぁ、参りましょう」
ひょんなきっかけだったが、あちらの世界を棄てて、こちらの世界を選んだわたしだ。これからどんなことがあろうとも、強く、ゲロを吐きながら乗り越えていこうと思う(物理的にも)。
朝日が昇る中で、わたしはボロアパートにそう誓った。
「がんばるぞー!」