【或る神狐の追憶】
まどろみの中で浮かんでは消えて逝く泡を数えていた。
あの無数の鳥居が立ち並ぶ空間で、わらわはずっと封印されていた。別に意識して解放されてやろうと思っていたわけではないが、外の世界にいたころに比べればあまりに退屈な毎日だった。それだけこの『箱庭』が平和ということなのだから、仕方あるまいと、毎日毎日社の屋根の上で昼寝をする毎日だった。
『鬼』を斬るために生まれたこの太刀と、わらわの立ち位置は非常によく似ている。用済みとなった『兵器』に訪れる日々とは、せいぜいこのようなものだろう。日数を数えるのも飽きたそのころ、こつこつと社を訪れる足音が聴こえた。
「珍しいのう。『黒の予言書』を読み飽きたのか?」
「相変わらずね、稲荷」
現れたのは、黒髪の少女。朱の着物の袖には大きな鈴がついていて、彼女が何か振る舞う度にりんりんとなって耳障りだ。右手には黒い表紙の古書を携えており、とあるページで開かれている。山田穢見ル。彼女はその黒い表紙の古書のために存在し、その黒い表紙の古書は彼女のために存在する。
「あらゆる世界の事象に巻き込まれてしまったあなたの運命には同情する。けれど、哀れみはしない。あなたにはあなたの役割があるんですもの」
「その言葉、前にも聞いたの。けれど、わらわに出番はもうないのじゃろ」
「それなら、わたしは此処には来ない」
件。
その黒い表紙の古書には、そう刻まれている。亻に牛のその漢字が示すとおり、それは人間の顔をした牛の妖怪に起因する。世界の混乱期に現れるとされ、外すことのない予言をして消えていく。
過去でも未来でもないこの箱庭のはざまに存在する山田穢見ルという存在の本質はいまだにわからないが、彼女はその本を片時も離さない。本、というからには書いた者がおり、それを彼女に渡した者がいるはずだが、皆目検討がつかないし興味もない。ふざけ半分でそのページを盗み見たことがあったが、見事に白紙だった。穢見ルにのみ見えている文字なのか、わらわのような半端者には見えないのか、それともある種、儀式としてそのアイテムを持っているのか、真偽は定かではない。
「『鬼』が出たのか」
「さぁ。『観測者』は『箱庭』には介入しない。そんなことをしたら、台無し」
「またそんな訳のわからんことをいって」
「クロノ預言書に従ったまでよ。それじゃ、頑張って」
彼女はいつもこうだった。風呂敷ばかり広げて、その真意がわかるのはずっと先ということばかりだ。もしこの世界を小説に例えるならば、おそらく彼女が第一章の六話くらいで仄めかした伏線は、第五章か第六章くらいにならないと回収されないだろう。あくまでもののたとえだが。
きりり、と腰にかけてある『鬼斬り』が啼いているような気がした。
「教授ー、もう死にそうです」
「……それはもったいないな」
「ちょっと休ませてください」
「ほら、そこを見てごらんよ」
気がつけば、穢見ルの姿はなく、そんな二人の会話が聞こえた。一人は山田教授と名乗り、一人は小谷間まどかと名乗った。ほほう、とわらわは笑う。件がわざわざ忠告しに来るに値するメンツのようだった。一人はどちら側の魔女だかわらかないが、因果の糸が絡まりまくっていて正体が読めない。それに偽名を使っているのでなければ、『山田』を刻まれた者だ。もう一人の少女は、慣れ親しんだ(そしてわらわが暴れた)あの『箱庭』とは違う匂いがする。
どうやらしばらくは退屈せずに済みそうだった。
「客人とは久しぶりじゃ」
※
事情を聞くと、この『神性存在』と契約を交わしたいと宣う。それがその辺りの普通の人間だったら一笑に付すところだったが、さすがにこの二人が相手となると、話を多少は聞いてやるかという気にもなる。それにどこかで見ている(或いは読んでいる)山田穢見ルもそれも望んでいることだろう。
「妹を助けて欲しいんです」
「ふむ」
小谷間まどかの妹――小谷間ともえは正常に受肉できなかった存在なのだという。肉塊という呼び方が適切なのかどうかわからないが、四肢はなく、頭と胴体の区別もなく、目は見えず、意味のある言葉を話せない。ただし知恵はあるらしく、外界の物事を唯一正常に機能する感覚器である嗅覚で認識しているのだという。
「わたしは――、えっと、養子のようなものなんです。両親はよくしてくれましたが、それは妹があんな姿で生を受けたことの裏返し。きっと『両親』をやり直そうとしているんです。わたしがこの世界に――、じゃなくて、この家に来たのは、彼女を助けるためなんじゃないかって」
まるで主人公のようなことを言う。わらわはそれを欠伸しながら聞いていた。
「それで、その子が助けて欲しいって言ったのか? それはお前のエゴなのではないか。『神性存在』の力までも借りて因果を捻じ曲げて、その後訪れる運命を彼女は呪うのではないか」
いたずらのつもりでそう言うと、まどかは眼鏡を直してわらわを見据えたのだ。
「エゴです。助けて欲しいなんて言っていません。彼女が人の形をすればわたしが満足するだけのことに、多くのものを巻き込んでいます。わがままです。『神性存在』のせいで迷惑を被るのならわたしに全責任があります。絶対に妹を幸せにしてみせます、なんて都合のいいことは口が裂けても言えません」
「ほう」
「でも、助けて欲しいんです」
言っていることは、文字通りただのわがままだ。小谷間まどかという人となりを知らないが、もう少し賢くたち振る舞えそうなところを、この愚挙に出るという選択をした。賢く、愚か。だが、まどかという名前に似ず、まっすぐだ。わらわは筆舌に尽くしがたいほど多くの知的生命体を見てきたが、こんなのはなかなかおるまい。気に入ったと、わらわは膝を叩いた。
そこからは山田教授とのビジネスの話になった。どうやらこやつはゼミの生徒を利用してわらわをあの『箱庭』に解き放ちたいらしい。魂胆が見え見えだったのじゃが、わらわは乗ってやった。穢見ルがどこまで読んでいたのかはわからないが、わらわはもうしばらくは寝て起きるだけの生活では満足できそうもなかったのじゃ。
「受肉の代償として、『神性存在』を裡に宿す。器の支配権は原則小谷間ともえが所持するが、『鬼』の発生が認められた場合のみ、無条件で支配権を明け渡すものとする」
「お主、なにやら可笑しそうじゃな」
「いえ、あなたがた『神性存在』が根絶した『鬼』がまだあの『箱庭』の中にいるのかもしれないなどど、いささか非現実的で非常に失礼な条件の契約を結んでしまいました」
山田教授の襟首には『∇(ナブラ)』の紋章が輝いていた。
※
まどろみの中で浮かんでは消えて逝く泡を数えていた。
『稲荷いの』と山田教授に名づけられたわらわは、契約通り小谷間ともえという名の肉塊に健常な肉体を与え、その裡に宿ることとなった。それからの日々は刺激に溢れたものだった。わらわがあのはざまに封印されているあいだに、人の世は大きな確信を遂げ、ともえの眼を通して見る世界ははじめて見るものばかりだった。
『箱のなかに人がいるのじゃ!』
「これはテレビっていうんだよ」
『ともえ、見ろ、巨大な怪鳥が飛んでおるぞ!』
「あれは飛行機」
『ともえは物知りじゃのう』
「ぃぁぃぁ、照れる」
『鬼』を斬るためだけに生まれた物語である『鬼斬り』を抱え、今日もわらわは内気な女子高生の中で眠る。ときたま眼を醒ましては油揚げを食べたり、世界秩序の白血球たる影からともえを守ったりもする。
『ともえー、また独り言が駄々漏れじゃぞー。はじめが奇妙な眼で見ておる』
「ぃ、ぃぁ!」
稲荷いの。
『ONI』の逆さ綴りという極めて安直な名だったが、わりとわらわは満足しているのじゃ――。
次回:小谷間まどかの徒然日記




