んー、散歩してたらな、なんと『鬼』の匂いがしたのじゃ。
手を繋いで河原の堤防まで来ると、百鬼夜高の制服の男女がいた。何だよクソ、リア充かよと毒づいていると、声が聴こえてきた。他愛もない雑談であったが、もしやその声、我が従兄弟、はじめ君ではないか。となると話は別だ、隣りにいる子は、ほうほう、真面目そうでおとなしそうな子じゃないか。
「あれ、ねーさん」
「どうもどうも。はじめ君のねーさんでお馴染みの山田九十九です」
こんな状況は初めてなのでキョドってしまう。おうま君を後ろに隠しつつ、わたしははじめ君とその隣の少女に会釈をした。黒縁の眼鏡と、その真面目そうな雰囲気からは想像できない大きめの胸が印象に残った。おいおい、はじめくんよ、やるじゃあないか。
「は、はじめまして、お義姉さん、わたしは小谷間ともえといいます。はじめくんとは同級生で――」
おおう、お義姉さんとは気が早いじゃないですかーとにやにやしていると、少女はおうま君に負けず劣らず顔を真っ赤にして顔を伏せてしまった。うん。好感が持てる。それにはじめ君がちゃんとモテるようで安心をした。いくらベッドの下をさばくってもエロ本が出てこないので、ねーさんは心配をしていたのだ。
「そ、それで……、はじめ君にはいつも話し相手になってもらっていて、こうして帰るあいだも、――妙な匂いがするのじゃ」
「へ?」
わたしとはじめ君は顔を見合わせて、小谷間ともえと名乗った少女を見つめた。さっきの一言、妙に後半凄みがあったような……。見れば、ミドルの黒髪がざわついていて、本人はいまにも泣き出しそうな顔をしている。気のせいかもしれないが、瞳が猫の瞳孔のように細まって、金色に輝いているように見えた。
「あ、あの、小谷間さん?」
「えっと、その、これはちがくて、は、はじめ君? その――、懐かしい匂いじゃの。まさかまだこの『箱庭』で生きていようとは」
おいおい何なの、ラ・ヨダソウ・スティアーナなの?秘められし人格、影羅なの?と思いつつも、本人はふざけている様子はなさそうだった。ありていに言うならば、裡なる何かを必死に抑えているような。ぎり、ぎりりと、歯軋りも聴こえる。風もないのにざわめている黒髪は、いわゆるケモミミの位置にわずかに盛り上がっているように見えた。
「ねーさん、ともえはトイレに行きたいらしいから、ぼくたちは先に帰ろう」
「は?」
「いいから」
わたしの手を引いて、はじめ君が魑魅魍寮のほうに歩き出す。わたしの裾を引っ張っているおうま君がそれに釣られる。フードを目深に被っているから気づかれてないと思うが、小谷間ともえという少女は、心臓を鷲掴みにするような視線を、おうま君に送っていた。そして彼女は犬歯を見せて笑っていた。
「……ば、ばいばい、はじめ君、ま、また明日。わたしちょっとトイレが漏れそうでおしっこが」
と魑魅魍寮とは逆方向に堤防を走り出していく。わたしは意味がわからなくて呆気にとられるばかりだ。さきほどの『裡なる何かを必死に抑えているような』という比喩は、尿意なの?数多くのクエスチョンマークが浮かんでいるわたしに、けれど、はじめ君は前を向いたまま、答えてはくれない。
ふと、振り返ると、彼女の姿はもう見えなかった。
「ともえは、たまにああなる」
「……はじめ君?」
「理由はわからないけれど、ああなった姿をぼくに見られなくないみたいなんだ。トイレに行きたいなんて薄っぺらな嘘をつくけど、ある意味、それが符丁になってわかりやすい。ぼくがトイレを信じてるなんて、ともえも思っちゃいない」
得体のしれない何かを感じた。精神疾患か発作かわたしにはよくわからないが。
「はじめ君は怖くはないの?」
「怖くないよ。だって、最初に話しかけてきてくれた『友達』だから」
少しも気恥ずかしがることもなく、当たり前のようにそういうはじめ君だった。
「おうまって連れだしてよかったの?」
「……ダメかも知んない」
「ひょんにバレないように帰らないとね」
「はじめ君はなにか知ってる? おうま君の、このこと」
「さぁ。ぼくは魑魅魍寮で平和に暮らせればそれでいいんだ」
※
「はぁ、はっ、はっ……」
もうこれで何度目だろう、おしっこが漏れそうだと言ってはじめ君の前を去っていくのは。さすがにもうそろそろ別パターンを考えようと思っているのだけど、はじめ君は疑っている様子はないから、当分はおしっこの理由で逃げ出すことにしていた。この前、まじめに膀胱の病気を心配されて赤面した。
「どういうつもり?」
裡なるわたしに問いかける。肉塊として生まれ、ヒトとしての身体を持たなかったわたしと契約を結んだ『神性存在』。稲荷いの。肉体をわたしに与える代わりに、裡に住まわせる契約。どうやら彼女はこの世界と相容れない存在らしく、たまに影という存在に襲われることがある。彼女曰く、この世界の免疫機構、白血球のようなものじゃな。その際にはわたしは戦えないから、彼女を表に出して人気のないところで戦っているのだけど、こんな何もないところで彼女が起きるなんて初めてだった。
――何もない?
ちがう。わたしはいつものようにはじめ君と帰っていたが、はじめ君のねーさん(たぶん話に聞いている寝取られ体質の従姉妹だろう)と初めて出逢った。その脚元にはまだ10歳にも満たないようなフードを深く被った少年がいた。そのどちらかに、『神性存在』は反応しているように思えた。
『この身体はお主の肉塊を再構築して編んだものじゃが、その嗅覚、すごいものじゃな。それがなければ気づかなかった。危うい危うい』
わたしは息が上がってしまって、堤防の斜面に座り込んでしまう。わたしの裡なる狐少女は、くつくつと笑いながら、その金色の瞳をぎらぎらと輝かせているように思えた。彼女は闘争本能の塊らしく、影と戦うときかなり高揚しているが、今日のはそれの比ではない。
『お主の身体をいただく』
「影も出てないのにどうして?」
『契約に記されておる。ほれ、お主に身体を与える交換条件じゃ。『鬼』の討伐の必要性が生じたとき、例外なく支配権を明け渡すものとする。お主の姉は賢かったが、まさかまだ『鬼』がいるとは思わなんだのじゃな。しかし起こってしまった以上、契約は契約じゃ』
「お、おに?」
肉塊だったわたしだって聞いたことはある。それは人の手によって絶滅させられた、特異生物。強大な力を有していたが、ただそれだけで、社会の教科書で見るくらいのものだ。どちらかというとファンタジー、空想の世界の生き物に分類されていて、現実的なものではない。
『あやつ、寮に暮らしておるんじゃったな。みな、根絶やしじゃ。『鬼』を匿うなど許されん』
「は、ちょっと待って! ――来い、『鬼斬り』」
『わたし』が夕暮れ時の空に向かって手を伸ばすと、どこからか稲光を引き連れながら、一本の太刀が飛んで来るのがわかった。『わたし』の手はそれをしっかりと掴み、その感触を確かめる。姉が封印したはずの神具だ。
視界に映るわたしの腕は、百鬼夜高の制服のそれではなく、紅白に彩られた巫女装束のそれで、おしりにはもふっとした尻尾の感触、頭の違和感はきつね耳なのだろう。胸の奥からは溢れ出る漆黒の炎が、殺意と使命感に燃えていた。
「ちょっと待ってよ! はじめ君たちに危害を加えるなんて、わたしが許すとでも思うの!?」
『許してもらおうとは思っとらんのじゃが……、お主もしかして何か勘違いをしているのではないか?』
「……なによ」
『お主にその身体があるのは誰のおかげか。それともあの肉塊に戻りたいのかえ?』
「……っ!」
最初から交渉が成立する相手ではないことくらいわかっていたけど、躊躇いなくこの脅迫をされるとは思っていなかった。裡なる葛藤、両皿に置かれたふたつの魂は、その瞬間、完全に勝負が決まってしまった。わたしの魂は見えざる引力で暗い暗い闇の中へと溶けこんでいき、代わりに『大いなるもの』が目覚めるのがわかる。それはvs影との戦いとは比べ物にならないほど、血に飢え、戦いに悦んでいる。
『征くぞい』
立ち上がった『わたし』は一足飛びに近くの電柱の上へと飛び移り、『鬼斬り』を提げ、彼が住んでいるという寮のほうを見やる。わたしが肉塊だったときの唯一の生存戦略であった嗅覚、それが徒となった。おそらくあのフードの子が『鬼』だったのだろう。角を隠すためにフードを被せていたが、まさか嗅覚で判別できる者がいるとは誰も思うまい。それに『鬼』がいるなんてそもそも誰も思っていない。だからこそ、まどか姉さんはそういう契約を交わしたんだ。
――すべてが噛み合ってしまったこれを、『運命』と呼ぶのだろう。
抗い難い舞台装置。馬鹿らしくなってしまったわたしは、暗闇のまどろみの中に身を委ねることにした。肉塊じゃなくなっても、わたしは無力にちがいなかった。たかが人の手足を得たくらいでは、何も掴めやしなかったのだ。はじめ君の手も一度も握ることはできなかった。
あーぁ。
「お、まどかではないか!」
視界の片隅には、謎の鎧巨人と並んで歩くねーさんの姿があった。わたしを――、ここに発現した稲荷いのを見つめて眼を丸くしている。いのは『鬼斬り』と呼ばれる太刀を愛おしそうに抱きしめ、すんすんと鼻を利かせる。
「い、いの……! あなたどうして!?」
「んー、散歩してたらな、なんと『鬼』の匂いがしたのじゃ」
それだけ告げて、『わたし』は夕焼けの空へ飛び出していく。
次回:第三章第九話『或る神狐の追憶』