九十九さん、絶対におうま君を外に出してはなりません。
「……消された?」
どこからしらから帰ってきて、わたしのベッドでごろごろしていたひょん君が急にそう呟いた。随分と険しい顔であらぬ方向を見つめている。あれは百鬼夜高の方角だと思ったが……。
「ひょん君、消されたって何が? This video has been――」
「な、なんでもないですよ」
「って鼻血が出てるよひょん君」
慌ててティッシュでぐりぐり拭ってやる。こんな妙なひょん君は珍しかった。彼は「痛いです痛いです、そんな押し付けないでください」と言いながらも、わたしが買ってきた計算ドリルを解いているおうまくんを見つめ、ベッドから飛び降りた。烏帽子を直す。
「……九十九さん、改めて言いますが、『鬼』は本来この世界にいてはならない種族です」
「わかってるって、法で守られてないんでしょ?」
わたしがこの魑魅魍寮にやってきて、ニュースを見ながら学んだこと。この世界には、いわゆる付喪神や妖怪などの魑魅魍魎が跋扈しており、社会的に認知され、法的に守られている。が、わたしにたちにとって馴染み深い妖怪の代表格『鬼』だけは、すでに人の手によって完全に滅ぼされており、法律の条文に列挙された特異生物のリストには存在しない。その権利を人権と呼ぶのかどうかは知らないが、この国におうまくんを守る法は存在しないのだ。
「法で守られてない……、それだけじゃありません。『鬼』はこの世界の根幹を覆す――」
「ならどうしておうま君をここに置いているの?」
「それが必要だからです。九十九さん、絶対におうま君を外に出してはなりません」
それだけ呟くように喋って、鼻を啜りながら、ひょん君は共同食堂のほうへと向かっていった。なにか重大な失恋でもしたのだろうか。やたらめったら思わせぶりなセリフで伏線を貼るのはいいが、回収する方の身にもなって欲しい。
「……また随分と大物が出てきましたね」
とそこまでは聞こえたが、ひょん君は見えなくなってしまった。
さて、計算ドリルをやっていたおうま君だったが、無表情な大きな眼でわたしをじっとみつめている。短く揃えた髪を分けて、おでこにはたんこぶのような二つの突起がある。あと歯磨きをしたときにわかったのだが、鬼らしく犬歯が発達していた。人見知りが激しく、恥ずかしがるとすぐ真っ赤になる。赤鬼だ。
「お外に出たい?」
「んー」
おうま君は小さく首を傾げる。この魑魅魍寮ではわたしや憂姫がよく彼に構ってあげているのだが、やはり同世代との対等なコミュニケーションが不足しているためか、あまり感情の表現が得意ではないようだ。みんなが年上であるから、遠慮しているところもあるのだろう。
でも、九十九お姉さんは識っている。おうま君がよくテレビの旅番組を見ていることを。それでなくても、外の風景が映っているところは食い入るように見ているのだ。映画でやるようなファンタジー映画でも同じような反応を示す。彼にとって、この魑魅魍寮から外というのは、フィクションにも等しいのだ。
わたしはちゃぶ台の前に座っているおうま君の後ろに座り、優しく抱きしめてやる。髪の毛に鼻を埋めると、ミルクのような子供独特の匂いがする。そうだ、たとえ『鬼』であったとしても、おうま君は罪もないひとりのショタなのだ。
「むー」
「わからない?」
「……うん」
わたしの中の天使と悪魔が頭のなかで討論を重ねていた。天使は「こんなクソボロいアパートのクソきたねえ部屋から一歩も出れないなんて、虐待以外の何ものでもねぇだろ、あぁん? 外に連れて行ってやれよ、可哀想だろ」と言い、悪魔は「いけません。ひょんさんの警告を忘れたのですか? 『鬼』が現存するということを社会にバレてしまっては危険なのです」と、対峙していた。
つまりは――。
二人の間にわたしが割って入る。
『鬼』が現存するということを社会にバレないように、外に出してやればいいのだという話になる。アウフヘーベンだ。そして鬼である彼の特徴は、おでこの小さな突起に他ならない。それ以外は何処にでも居るような内気な男の子なのだ。
「そんなこともあると思って、フードを用意してございます」
きょとんとしているおうまくんに、Lサイズのフード付きのパーカーを着させる。前に回ってフードを下げると、目元まで隠してくれた。よし、これならおでこの突起はバレようがない。ちょっと近所までご飯を買いに行くくらいのことは許されるはずだ。
ちなみに子供服を選んでいる時、柄にもなく泣きそうになってしまった。わたしが手放したあの世界。すべてがうまくいっていれば同棲していて、あと数年もすれば、わたしは彼との子供を身籠っていたことだろう。こんな未来を夢想していなかったわけではないし、こんな未来ばかり妄想していた。でも――。
「……死ね!」
「お、お客さま!?」
まあ、そんなこともありながら買ってきたパーカーだ。柄は悩みに悩んだのだが、無地のものを選んだ。『鬼殺し!!!』って達筆で書かれているものもあったのだが、さすがにそれを着させるほどリスキーなことはできない。というか、何目当てで売ってるんだあのブランド。
鬼。
わたしがこの世界に転送されてからというもの、ネットでいろいろと調べることが出来たが、結局、ひょん君の語るこの伏線感だけは解せなかった。『魑魅ペディア』であったり『八百万ちゃんねる』を見ても、いまいち記述が判然としない。まるでわたしが元いた世界での、魑魅魍魎たちの記述のようだ。いま現存しないことになっているのはわかるが、その項目だけもやっとする。詳細に書いてあるものを見つけたと思えば、それは都市伝説めいたものだったり、創作だったりする。
「君にどんな隠された能力があるのかねー?」
わたしにとっての、『鬼』とは、この身の中にある殺意の塊――ではなく、このおうま君のことだ。人見知りの激しいショタで、小さな角をこしょこしょすると、うひゃひゃと笑う。おそらくこの魑魅魍寮からは一歩も外で出たことがないらしく、家族構成も不明。彼にとっての社会とは、ひょん君であり、柊さんであり、はじめくんやわたしなのだろう。
「逆にだよ、」
ここまで『鬼』が浸透していない世界だったら、彼を連れだしてもバレないのではないかというのが、わたしの推論だった。フードを目深に被って小さな角さえ隠せばただの男の子だ。それよりも危なさそうな魑魅魍魎たちはこの世界に腐るほど居る。デュラハンリーマンのヒトーさんだって、あの姿でしっかり働いているではないか。それよりはよっぽど平和的存在だ。
「そうしようそうしよう。おうま君、今晩は何が食べたい?」
「ころっけ」
「コロッケね~、それじゃあそこの肉屋さんまで一緒に行こうか?」
「お母さんの作ってくれた、ころっけ」
「そっかそっかー、おふくろの味だもんね――、ってええ!? おうま君、お母さんいたの!?」
「ふつうの生き物はいるとおもう」
「そりゃそうだけど」
またひょん君にはいろいろと聞き出さないといけないなと思いつつ、わたしはおうま君を立たせて、服を整えさせた。小さなかわいい靴下も履かせて、ひょん君にばれないように買っておいた子供靴をベッドの下から取り出す。
慣れない感触に戸惑うおうま君に、わたしは人差し指を唇に当てた。
「しーっ」
「しー」
「お姉さんと冒険へ出発だよ」
おお、とようやく事態を飲み込めてきたおうま君は眼を輝かせた。そりゃそうだ。この世代の男の子が朝から晩まで部屋の中にいるなんて虐待でしかない。ヒキニートじゃあるまいし、外で遊びたいに決まっているのだ。それでなくても、わたしはおうま君と一緒にお買い物をしたり、散歩がしたい。
「れっつらごー」
「おー」
そうして、わたしは小さなおうま君の手を引いて、魑魅魍寮から一歩踏み出したのだ。
ようやく、ヒトー編の最終話に繋がりそうな予感。