おしっこはわたしに任せて先に帰ってて!
――この世には目には見えない闇の住人達がいる。
奴らは時として牙をむき君達を襲ってくるかもしれない。
「この世はわからないことがたくさんあるなぁ」
『どうしたんじゃ』
隣の席のはじめくんと一緒にお昼ごはんを食べて、午後の授業が始まる少し前は、こうして屋上に昇るのが趣味だった。昔飛び降り自殺があったとかで厳重に封鎖されていたけれど、いのの異能を使えばなんてことはない。わたしだけの最高に気持ちのいい空間の出来上がりだ。
青空に向かって思いっきり伸びをして、フェンスにもたれる。
「いくらなんでも勉強が簡単過ぎる。これじゃ、一緒に泊まりでテスト勉強なんてできない……」
『余裕じゃなあ』
「ほんとそう、授業もつまんなくてつまんなくて」
手も脚もなくものも見えない肉塊だったころでも、ちょっとニュースか番組で情報を入れて、自分で考えて応用すればこれくらいのことは思考できた。もう二週間も学校に通って、それは逆によかったのではないかと思うようになってきた。わたしは自分で思考する癖が身についているが、他の生徒達はまるで餌を貰おうとする雛のようだった。
『それじゃ学校をサボって油揚げを食べに行こう』
「それはダメ。せっかく夢見た学園生活をエンジョイしているんだもん!」
高校の屋上で、独り言に見せかけて魔なる者と対話なんて、それっぽい! と、わたしは独りでテンションが上がっていた。肉体を得てから、学校に入学するまでの数ヶ月間、ネットの力を駆使して学園モノのアニメを見まくったのだ。本来の予定では軽音楽部か学校内サバイバル部に入るつもりだったのだけど、あいにくそのどちらもこの百鬼夜高にはなかった。
それでも入学初日に男子とぶつかることはできた。
恋に憧れる肉塊だったわたしは、本当にこの高校に入学してよかったと思っているのだ。
ヴィーヴィー、とポケットの中の携帯電話が震えた。わたしが入学するときに、入学祝い&心配のためにねーさんが買ってくれたものだ。スリープモードを解除すると、わたしとねーさんのツーショットチェキが映っている。LINNEの着信、はじめくんからだった。
『そろそろ授業始まるぞ、戻ってこいよ。次、特異生物の授業で教室移動だから』
「いっけない!」
わたしは身を翻して、屋上の入り口に走って行くのだった。
※
百鬼夜高はその名のとおり、特異生物の学習に特に重点を置いた高校だった。ときには特異生物だけが働いている工場なども見学に行き、多くの歴史を勉強し、ねーさんの在籍していた大学院からの出張授業なんかもあったりする。
生徒の三分の一程度も特異生物で占められていたが、それもほとんど人間と大差ないような種族ばかりだった。当然だ、コミュニケーションが取れないような者や、規格外の大きさの者、ヒトに危害を加えるような者はこの学校で教育するということはできないし、そういう者には特異生物自立支援法に基づいて行政処分が面倒を見ることになっている。
「特別講師のひょんです。よろしくお願いします!」
特別授業で特異生物そのものが講話をすることもよくあった。今日はどこの家の者か知らないが、小さくて可愛らしい座敷童だ。教壇の上に立って、パワーポイントで作られたスライドをめくりながら、座敷童はじめ付喪神と呼ばれる者たちについての説明を話していく。が、正直な話、聞いたことがあるものばかりで、自然と欠伸が出てしまった。
「ん?」
隣を見ると、いつも授業は眠ってばかりいるはじめくんがきちんと起きて、眼を見開いて話を聞いていた。ついでに口まで開きっぱなしだった。ショタコンか何かなんだろうか。そんな受講態度に感心しているのか、講師も心なし彼の方にドヤ顔で視線を送っているような気がする。
「……であるので、意志量子力学と特異生物は切っても切り離せない存在なんですね。物質としての量子と、観測者としての意志、それを縦糸横糸に編んで影響力を及ぼすものが、かつてラプラ――、げふんげふーん」
ねーさんから聞いたことがあるような話ばかりで、わたしはだんだんとまぶたが重くなってきた。まあ、いいや。頬杖をしてまぶたを閉じる。レポートはあとで適当につらつらと書こう。
『ともえ、これは――』
――いのー、寝るよー眠いんだよ、こんなの子供向けの漫画のレベルだよ?
『だが、』
なぜだか妙にいのが何かを気にしていたが、わたしが眠っていしまえばそれまでだった。
※
この百鬼夜高に通うようになって二週間が過ぎようとしていた。
席が『たまたま』隣同士になったこともあってはじめ君とはよく世間話をし、ご飯を一緒に食べ、お互いに部活には所属しなかったので、学校が終われば一緒に帰っていた。百鬼夜高から伸びているメインストリートは駅と商店街を貫いて、街を流れる大きな川へとぶつかる。そこがちょうどねーさんが勤めているというオフィスであり、その川を下流に沿って歩いて行くとわたしの家、上流に向かえばはじめくんの家があるらしかった。
今日は例の特別講師がつらつらと長い講話をしたせいで、今日は帰りがいつもよりも少しだけ遅かった。駅前ではじめくんの買い物に付き合い(スーパーを数軒巡って効率のいい買い物をしていた。女子力!)、レジ袋を半分持ちながら、夕暮れ時の街を歩いていた。
「それでね、ねーさんったら、『絶対に恋愛にかまけたりはしない! 社会は厳しいの!』なんて言ってたのに、二週間も経たないうちから、恋愛相談とかしてくるんだよ」
「へえ、面白いおねーさんだな」
「でしょう」
真面目一辺倒だったねーさんは、此処に来て運命の出会いというものをしてしまったようだった。勉強一筋でほとんど耐性がなかったせいか、最初は気づいていなかった。が、帰ってきてから毎日のように一人の男性職員の話をされるので、それって『もしかして:恋』とそれとなく伝えたら、顔を真っ赤にして否定をしながら頷いていた。
「はじめくんにもおねーさんはいるんだっけ?」
「あー、まあ、故あって一緒に暮らしてる従姉妹がいるな」
「こういう相談とかされない? それとも結婚してる?」
「その話だけは絶対に訊かない方がいい」
トラウマでもあるのか、ものすごい眼でそう釘を刺された。
「ん?」
「どした?」
「いや、はじめくん、なんか変な臭いしない?」
彼は首を傾げていたが、わたしにはよくわかった。肉塊だった頃、目が見えなかったので発達したのが嗅覚だった。それは人であれ特異性物であれ、明確に嗅ぎ分ける。生き物は臭いだけには嘘がつけない。ずるずるとその臭いのするものは近づいてくる感覚。
――もしかして視えてないだけ?
『正解じゃ。わしの眼をやろう』
いのの異能力によって視界にフィルターが掛かったように色調が変わった。そこには電柱の陰、ゴミステーションの中、空き地の草むらの中から、這い出てくるように近寄る不定形の黒い影があった。虚ろな白い穴が目に相当する部分に開いていて、そのどれもがわたしに焦点を合わせていた。
「なに、これ……」
「ん? 小谷間どうしたんだ?」
『やつらはわしを狙っておる。少年を守りたいんじゃったら、はよ逃げい』
たしかに逃げなければならないようなヤバみを感じる。けれど、はじめくんにはこの影が視えていないようだ。どうやって離れるべきか。どうやってもわたしだけが逃げる理由は見つからなかった。そうこうしているあいだにもずるずると影達はにじり寄ってくる。
『はよせい』
「ぃぁぃぁ、はじめくん、わたしはおしっこがもう我慢できないから! ちょっとコンビニ寄ってくから! おしっこはわたしに任せて先に帰ってて!」
とレジ袋を押し付けて、ぽかーんとしている彼を尻目にダッシュで元来た道を戻っていった。少し離れてちらっと振り返ると、たしかに影達は追いかけてくるが、はじめくんは眼中にないようだ。ちなみにはじめくんはまだぽかーんとしていた。すべて忘れて欲しい。
「それで、いったいあんたは何をしたのよ、あの影は何?」
『もう少し、さっきの空き地まで逃げるのじゃ。ここじゃ目につく』
「し、質問に答えてよ!」
『侵入した異物を排除するために、白血球が働くのは自然なことじゃろ?』
言っていることはわかるようでわからないが、わたしはとんでもない存在と融合してしまったのかもしれなかった。
次回:『おうまがどき!(3)』
夏の神様が言っていたように第三章からバトル物になりそうですね。