【或る女子高生の追憶】
「ねーさんのデートうまく行ったかなあ」
小谷間まどかが出掛けて行くのを見送って、わたしは朝食を終え、少し宿題をやって、ソファにごろりと寝転がった。ゴールデンウィークの初日、外はばりばりの観光日和だったが、残念なことにわたしには友達がいなかった。いるのは一緒に暮らすねーさんと、遠くに暮らす両親だけ。
涼しいそよ風が頬を撫で、わたしはダメ人間製造ソファにより深く身体を押し込めた。押せば、反発がある。そのソファにかたちどられた形状は、まさにわたしの肉体である。息を吸って、息を吐く。手の一本、脚のつま先まで意識を張り巡らせる。
――まだ、この身体には慣れていないが、この生きている実感は喜ばしい。
※
まどろみの中で浮かんでは消えて逝く泡を数えていた。
――わたしは人間ではなかった。
かといって特異生物と呼ばれる種族でもなかった。そもそも生き物と呼んでいいのかどうかすらわからなかったし、いまでもちょっとわからない。わたしはそのころのわたしを的確に表現する単語を知っていて、それは『肉塊』という色気も何もない日本語だった。
「ぅあ」
意志を外に伝えることはうまくは出来なかったし、両親に的確に伝達されることはなかったが、鼻だけは何故か器用に作用した。生まれた頃から光を見たことのないわたしだったが、父の匂い、母の匂い、先生の臭いは正確に嗅ぎ分けられていた。時折、ものすごく特別な薫りがすることがあって、それは病院内でわたしの個室に近づいた特異生物を認識していたのだということを最近知った。
「あなたは可愛い子ね」
「う~ぃあ」
「ほんとうに自慢の娘」
「いぁいぁ」
母はよくそうやってわたしこと肉塊に語りかけてくれた。父はあまり話しかけることはなかったが、母がこの病室にやってくるときには必ず着いてやってきた。煙草の匂いが父の思い出だ。わたしの病状(というのも変だが)については、医師も「生きていること自体が奇跡」と呼ぶほど不思議なものらしく、わたしは永く昏いひとりきりの時間を思索をして過ごした。
母が『物語』を読み聞かせてくれたから、ヒトというものを理解していった。ヒトはわたしのような存在ではなく、両腕と両脚があり、自由に動き回れること。感覚というものは五つあって、世界はさまざまな刺激に満ち溢れていること。そして、ヒトは愛する人を見つけてひとつになるのだということ。
わたしは母が帰った後の永い思索の時間で、何度も何度もその世界を思い描いた。当然、そこには手が届かない。わたしに手なんてないのだから。
※
「はじめまして、あなたのお姉ちゃんです」
わたしにねーさんが出来たのは、かなり後になってのことだった。わたしの学んでいた常識というやつでは、姉という存在は後出しで出てくるものではないと思っていたのだが、どういうことなのだろうか。
わたしという人間未満の存在に嘆いた両親が養子でも取ったのか、あるいは実は最初から姉がいて、大きくなるまでわたしの存在を知らせなかったとか? その真実を尋ねる術がなかったわたしは、戸惑いながらも、意味をなさない返事をした。
「こちらは山田教授」
「ぃ!?」
そのときわたしは無数のコードに繋がれたこの肉塊でジャンプしてしまうほど驚いてしまった。何なんだこの匂いは。うまく表現はできなかったが、何かがおかしかった。位相がズレているような。ヒトでも特異生物でもない。わたしは開け放たれた窓から周囲500メートルの匂いを正確に嗅ぎ分けられるほどになっていたから、わたしが世間知らずというわけでもない。
「はじめまして。小谷間の妹さん、山田です、どうも。お姉さんからの頼みでやってきました」
この山田教授という存在からは、煙草の匂いに混じって何か得体の知れない深さを感じた。もしわたしに脚というモノが生えていたら、このベッドから飛び降りて逃げ出していただろう。それほどの恐ろしい匂いが、この狭い病室に二つ存在指していたのだ。
「お主が言っていたのは、この娘じゃな?」
少女の声音。しかし彼女もいままで嗅いだことのない匂いをしていた。パニックになりそうだった。山田教授という存在はヒト側の匂いの位相がズレている感じだったが、この少女は特異生物側の匂いがしていた。加えて獣の匂いも混じり、挙句、位相がズレている上に反転しているような感じすら受けた。
「ぃぅぃぅぃぅ……」
「怯えないで。いい? わたしの質問に答えて欲しい。『はい』なら声を出して。『いいえ』なら声を出さないで」
「ぃぁ」
「お利口さん。小谷間ともえちゃん、あなたはヒトの身体を得たい?」
あまりに突拍子もない質問で、わたしは虚を突かれてしまった。が、これはわたしが15年近く、暗闇で孤独な世界で待ったその報いなのだと、すぐに気がついた。そのときわたしは光というものを見たことがなかったのだが、あのときにわたしの頭のなかに舞い降りたイメージは間違いなく光り輝いていた。
「ぃい」
「ありがとう。それが可能な手段がひとつだけあるのだけど――」
「ぃい! ぃあ!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて」
「ぃう! いぅ!」
わたしはそれどころではなかった。事情はまったくわからないが、これを逃せば、もうこんな機会は二度と訪れないことに気がついていた。母の読み聞かせ、テレビのニュース、そこから想像した世界のすがた。さまざまな匂い、交わるヒトの匂い、そして憧れた、恋――。
「特異生物にもカテゴライズされていない『神性存在』との契約をすれば、あなたは肉体を得られる。その代償として、器を必要とする彼女を裡に住まわせることになってしまう。それでもいい?」
「一心同体というわけじゃ!」
「……」
正直な話、信用できるわけがなかった。急に出てきた姉という存在、ヒトともわからぬ山田教授に、のじゃのじゃうるさい少女。美味しい話。母から聞いた『物語』の中では、こういった話は腐るほどあり、そしてそのいずれもホイホイ乗ってしまった愚か者が相応の罰を受けていた。
「ぃあぃあ」
それでもよかった。
いまのわたしにはその罰を受ける権利すらないのだから――。
※
まどろみの中で浮かんでは消えて逝く泡を数えていた。
――わたしは人間ではなかった。
こうして『稲荷いの』という存在と融合し、受肉をしたわたしだったが、そんなわたしが果たしてヒトにカテゴライズされるのか、特異生物にカテゴライズされるのか、判然としなかった。魂の中の小部屋に住まう、いのもいまは、春の心地良い風を受けて眠っているようだ。わたしも欠伸をひとつ。
ダメ人間クッションに埋もれるように、わたしは自分の身体を預けて行く。
次回:狐と女子高生と山田はじめと。