お、まどかではないか!
映画館を後にして、ヒトーさんと安価なディナーを食べた。他にも入ってみたいお店があったのだけど、ヒトーさんが看板を前に固まってしまったので、「あ、ハンバーグが食べたいですハンバーグ大好きハンバーグです」と隣のファミレスに引きずっていったのだ。
特異生物に配慮された映画館の近くのお店ということもあって、ヒトーさんが入店しても特に文句も言われず、そりゃ少しは注目は浴びるけれど、地元の駅や電車ほどではなかった。むしろこの環境では特異な生物といえるわたしのほうが目立っちゃってるような気もする。さっき注文を取りに来た店員さんも全身が鱗で覆われていて舌が二つに分かれていたし(変温生物なのに厨房に入っていたらしく冷えピタを貼っていた)、ハンバーグ定食を運んできた者はどうやら牛ベースの特異性物の女性だった。その豊満なおっぱいには多少憧れるけれど(数はいらないけど)、あなたはこのハンバーグ専門店にいていいんだろうか……。
「面白い映画でしたね、『静寂魔女リティ』」
「本当に面白かったです。まだ見ていない人にはぜひ見ていただきたいところですが、ほとんど寝ていたじゃないですか」
「……すみません」
「あんな寝顔なのですね、あなたは」
いったいどんなアホ面をさらしていたのだろうか。サラダをもしゃもしゃ食べているが、まったく味がしない。耳まで真っ赤になっているだろう。結局昨日は緊張してほとんど寝ることができなかった。午前五時くらいにようやく開き直って寝たところ、妹に起こされたのだ。そんな寝不足のところで、ほとんどすべての特異性物の体系にフィットするキングサイズのクッションに座ってしまえば、そりゃあ眠ってしまうだろう。
「まどかさんは大学時代はどういった勉強をされていたんですか?」
「う……」
あの教授のことを思い出して、サラダが喉に詰まった。わたしに学問の何たるか――というか、特異生物という存在がいかに異端で、そして、それが馴染んでいるこの世界がいかなる意図に基づいて構築されているのか、という示唆を与えてくれた人だ。ただ、覗きこめば吸い込まれそうな闇のような人で、いまだにわたしは教授の識っていることの10%も理解できていないだろう。……もう研究職からは脚を洗ったが。
「大学時代の研究内容ですが、知ればここで二人仲良くお縄になります。国家機密に関わることなので」
「そうですか、それは大変そうだ」
「ほとんど研究室では徹夜の毎日でしたが、多くのことがわからないままでした。あ、ヒトーさん、ハンバーグ来ましたハンバーグ食べましょう」
「ええ、いただきます」
ひょいひょいと筆舌に尽くしがたいで方法でハンバーグを食べていくヒトーさん。なんとなくで入ったファミレスであったが、意外と美味しかった。舌の上に広がるその美味しさはまさに筆舌に尽くしがたい。うん。
「それでどうしてあの会社に入ったんですか?」
「痛いところですが、国の予算が削られていって満足に研究ができなくなったのと、それと大学に通うために一人暮らしをしていたのですが、ちょっともう一人養わなければならなくなってですね」
「同棲しているんですか」
「ちちち、ちがいます。妹が、えっと、その、越してきてですね。高校に通っているんです。百鬼夜高ってありますよね? その学費やらなんやらの面倒を見たいと思って、一大決心をした所存です」
「それはそれは」
「いつも妹からは『抜けているねーさんだ』って言われています」
ハンバーグを食べ終わったヒトーさんはナフキンで口元――もとい、バイザー元を拭っていた。そういえばあのとき一瞬だけ浮かび上がったラプラシアンは何だったのだろう。わたしも気が動転していたから見間違いだといいのだけど。意志量子力学における『拡散』の紋章。活ける魔女の紋章があったとなれば――。
「自分の鎧に何か憑いていますか?」
「い、いえ、かっこいいなーって、じゃなくて! なんでもないですもぐ!」
いまはこの幸せな味を噛み締めておこう。
※
「教授、どこまで歩くんですかー?」
「あと少しさ。つかないつかないと思っているから、いつまでたってもつかない」
わたしが大学院を辞める半年前、わたしと教授は二人してほぼ無限とも思える石段を登っていた。左右には無数の提灯が立ち並び、短い間隔で朱の鳥居が立ち並ぶ。周囲には霧が立ち込めて、下の街も見えなければ、上の頂上も伺えない。
もともと体力のないわたしにとってはもう疲労困憊の極みであり、肩で息をしながら、一段一段重い脚を引きあげながら階段を登っていた。もう何時間歩いただろうと腕時計を見れば、短針が秒針よりも早くぐるぐると回っており、長針に至っては逆回転をしていた。はは、と笑いが溢れる。教授と一緒にいればこんな不思議体験は日常茶飯事だ、いまさら驚いてもいられない。
「こんなところに本当に居るんですか」
「さあ」
「さあ!?」
「だから調査するんじゃあないか、まどかくん」
何がきっかけだったのかは思い出せない。たしか教授が古めかしい文献を見て気になったとかそういうレベルの思いつきだったのだと思う(そのようにわたしには見えた)。たしかに霊峰と呼ばれる山や一部の社には特異生物がいまも居着いているという噂もあるが――。
「教授ー、もう死にそうです」
「……それはもったいないな」
「ちょっと休ませてください」
「ほら、そこを見てごらんよ」
そこには古めかしい社の屋根に腰掛けている少女がいた。
ただの少女ではないことはひと目でわかる。猫のように引き締まった瞳孔。巫女装束のようなものを身にまとっており、腰には長い太刀がかけられていた。銀色の髪の頂点には、ふたつのふさふさの耳。巫女服も穴を開けてあるのか、狐を思わせる尻尾が垂れていた。
「客人とは久しぶりじゃの」
それが、わたしと『彼女』の出逢いだった。名前さえも忘れられた彼女は教授によって、『いの』と名付けられた。その命名の理由はわたしにはよくわからなかったが、教授はくつくつと嗤っていた。さて、その後、大学に戻り、『わざわざこんなところまでいのを探しに来た』ある目的を果たし、わたしは生活費を稼ぐために近くで就職をし、妹は高校に通うためわたしの家に転がり込むこととなった。
いまは教授とは連絡は取っていないが、あの人はいま何をやっているのだろうか。
※
「楽しかったですね」
「ええ、また行きましょう」
『また』という言葉がこれほど嬉しいものだとは、長い勉強生活の中では学べなかった。電車に乗って地元について、わたしとヒトーさんはとりあえずオフィスまでの道を歩いていた。ヒトーさんの住んでいる寮は川沿いにもう少し先にあるらしい。
「今度、おじゃましてもいいですか?」
「なにもありませんが、それでもよければ」
楽しい時間はあっというまに過ぎていってしまう。手を繋ごう手を繋ごうと思っていたのだけど、結局微妙に距離を詰められただけで、オフィスは近づいていってしまっていく。いまさら呼び止めるのもおかしいし……。おかしいか?
むしろこれを逃してはいけないのではないだろうか。
よし。
「ヒトーさん」
満点の星空が街灯で見えない、ロマンチックのかけらもない、川の堤防の上で、わたしは彼を呼び止めた。心臓はもう飛び出そうなくらい鼓動を打っている。手のひらにはじっとりと汗が滲んでいる。唇を濡らし、振り向いたヒトーさんを見据える。
――そして、想いを伝える。
「わたしは――」
「お、まどかではないか!」
不意に飛び込んできた少女の声に、飛び跳ねるほどびっくりしてしまった。たしかに少し低めのこの声色は、教授とともに契約をしたあの狐少女、『いの』のものだった。なんでこんなところに。そんなことはありえないのに。
月明かりに照らされて、街の電柱の上にそのシルエットはあった。微かに吹く風に、長い銀髪が揺れている。耳が生え、尻尾が伸びて、手には厳重に封印したはずのあの太刀が握られていた。猫のように細まった瞳孔は、この距離からでもはっきりと伺えた。
そんな彼女がこちらに手を振っている。
「い、いの……! あなたどうして!?」
「んー、散歩してたらな、なんと『鬼』の匂いがしたのじゃ」
信じられない単語が飛び出して、わたしは呆然と彼女を見つめていた。
次回から:第三章『或る女子高生の追憶』
※前にも書きましたが、一日の閲覧数が100を切らない限り毎日更新をする予定でありますが、章(10話ごと)をまたぐたびに3日ほどお休みをいただきますので、よろしくおねがいします。
※夏姫さんが言っていたように第三章からバトルが始まる予感がします。