【或るOLの追憶】
まどろみの中で浮かんでは消えて逝く泡を数えていた。
「おかーさん、ここに、ちいさなこがいるの」
「何を馬鹿なことを言っているの? 頭がおかしいのだわ」
小さな頃には『座敷童』が視えていた。あれが妖怪だとか付喪神のようなものだと気づくまでにはかなりの年月を要したし、わたしとその見えざる座敷童や名もなき小さな妖怪たちは当たり前のように仲良く遊んでいた。それはとても楽しいことであったのだけど、何故か母の態度は次第に冷たいものになっていった。
「あんなクソ男の遺伝子が混じっているから」
何度か首を絞められたこともあったし、包丁で怪我を負わされたこともあった。訪問してきた児相の職員に対しても母は逆ギレするばかりで、わたしの苦境は一向に改善されなかった。学校にも行かせてもらえなかったわたしは、母が働きに出ている夜だけ、自由に振る舞うことが出来た。自由に『彼ら』と遊ぶことができた。
「ねえ、どうしてみえないの」
「どうしてそんなことを言って、ママを困らせるの」
「ほら、てのひらくらいの小さなこがなにかいうよ」
「それは枯れ葉のざわめきよ」
座敷童というからには、ぜひともこの地獄のようなアパートの一室をわらして欲しかったのだけど、一向にわたしの日常は変わりはしなかった。その中でわたしは忍耐を覚え、忍耐以外の何もかもを学ぶことはなかった。
「殺してやる」
そう言われたのは何故だったか、もうあまり憶えてはいない。何かに躓いてお母さんの大切な何かを壊してしまったか、バッグにジュースでもこぼしてしまったのか、いずれにせよ、わたしよりも価値の高いものが毀損されて、泣きながらごめんなさいと叫ぶわたしに母は包丁を突きつけた。
――突きつけようとした。
「へ?」
「え?」
とても不思議な出来事が起こって、怒った母はふわりと宙に浮き、その速度を殺しきれないまま、開け放たれた窓を超えて六階の高さから真っ逆さまに落ちていった。壮絶な絶叫が遠ざかっていくのが聴こえて、形容しがたい衝突音が団地に鳴って、反響し、沈黙の後、現実が押し寄せてきた。
母はとても不思議そうな顔をしていた。それはそうだ。そこに何もないのに、魔法のように身体に力が作用したのだから。でも出来損ないの頭がおかしい子であるわたしには、それは視えていた。『視えるはずのないもの』たちが力を合わせてわたしを守るとしているその姿を。
母の『事故死』によって呆然としたわたしの目の前に、あのよく遊んでいた座敷童が現れた。いくつか小難しいことを喋られて、当時のわたしには理解ができなかったが、迫ってくる救急車のサイレンやドタドタと階段を上がってくる大人たちの足音に、パニックになってしまったわたしは、その座敷童の誘いに乗ることにした。
――そしてこの『魑魅魍魎たちがいて当然の世界』の物語に接続したのだ。
※
この二つの世界間の世界観のちがいについては、座敷童がフォローしてくれたが、学力ばかりは自分で身につけるほかなかった。この世界の『小谷間』は非常に理想的な家族で、父もいて、母は殴らず、本当に幸せな時間を過ごしていた。まるで誰かが正反対の環境にわたしを入れたどうなるのか、『観測』でもしているかのように。
もともと魑魅魍魎たちに興味のあったわたしは、命を助けてもらった恩義もあり、その学問の道に進むことになった。この世界においては、法整備がなされたのが最近とはいえ、かなり昔から得意生物として認知はされていた。ただ、その特性があまりに多岐に渡るため、学問めいた研究がほとんどなされていないというのが現状だった。
いまも続く世界情勢の不安もあり、ほとんど社会の役に立たないその研究にかけられる予算は年々減らされることとなり、わたしは親元を離れた遠くの大学院で、その道の第一人者と呼ばれる教授のもとでほそぼそと研究を続けていた。
「この『箱庭』の中では何を『観測』すればいいのかしら」
「教授?」
「独り言さ、忘れて頂戴」
特異生物という存在は、意志量子力学という体系と密接に絡み合っているというのが、この研究分野での共通理解だった。ウィルクァンタムコンプレックスセレオム。シュレディンガーの猫ではないが、知性体の『観測する』という行為が、物事に物理(量子)的な影響を与えるという理論。原則的にはすべてのヒトにその能力は備わっているはずなのだが、まだ論文の上の存在でしかなかった。
『鬼』という既に滅ぼされてしまった種族がまだ存在するならば話は別なのだが、それを仮定するほどこの世界はファンタジーではない。あまり表向きには公表されていないが、彼らは徹底的に滅ぼされたのだ。忌避すべき存在。生き残りなんて『いてはならない』。
「『意志量子力学』は何故発動しないのでしょう。理論値は満たしているのに……」
「まだ100万匹目の猿に届かないのさ」
「教授、共時性ですか? まさかグリセリンの結晶が――とか言い出すんじゃないでしょうね」
「ああ、それもそうだよ。『箱庭』を設定したやつがグリセリンの結晶化を失念してたのさ」
グリセリンの結晶化に纏わる都市伝説――、念のため、調べてみたが、こちらの世界でも扱いや解釈は同じようだった。かつて世界中の科学者がどのようにしてもグリセリンは結晶化しなかった。 1920年代のある日、イギリス貨物船のある樽のグリセリンが一樽、偶然に結晶化し、それ以来、世界中のグリセリンが17.8度で結晶化するようになった――というものだ。
「そんなゲームみたいな」
「ゲーム? いい表現だね、実績解放と言ってもいいかも」
教授の言葉はどこまでが本心だったのかわからなかったけれど、その吹いたタバコの白い煙の向こうで、彼女は微笑むながら、小さな『箱』を見つめていた。結局、わたしが研究室を去るまで、山田教授の真意はわからずじまいだった。
※
それから、妹が『出来て』――、
「まどかさん、まどかさん、起きてください」
「ふぇ?」
ヒトーさんに身体を揺すぶられて、ようやく意識がまどろみから起き上がってくる。ここは映画館の中で、すでに照明は灯されており、さまざまな特異生物の人たちが各々に感想を言い合いながら出ていこうとしているところだった。
「もう映画終わりましたよ。涎を拭いてください」
「……お恥ずかしい」
たしか『静寂魔女リティ』というファンタジー作品の導入の部分までは覚えていて、主人公が魔箒として誕生したところまでは記憶にあるのだけど、そのあとの記憶がまったくなかった。たぶん10分くらいで寝てしまったのではないか。まったくこの監督の作品はいつも、導入部分が下手くそだ。
「すみません。行きましょうか、ヒトーさん」
嫌なものはかき集めて『箱』に押し込んで忘れていたつもりが、たまにこうして蓋が開くこともある。わたしはもうこの世界の『小谷間まどか』なのだと、その度に自分に言い聞かしている。あの世界にはもう未練はないのだから――。
次回:第二十話『崩壊していくこの日常のその中で』
次回で第二章が終了します。
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