【或る鎧の追憶】
――追憶は焔より冷たく、氷よりも暖かい。
まどろみの中で浮かんでは消えて逝く泡を数えていた。
もうあれからどれほどのときが経ったのだろう。記憶は断片的ではあるが、かなりの時間が経過したものと思われる。この鎧も随分長いこと酷使してしまった。傷は数え切れないほどあるし、塗装もその都度直してはいるものの、かなり無理が来ている。
――それでもこの紋章だけはいつまでも輝いている。
この鎧の胸部分に穿たれた紋章。無数に重なりあった円の中心には、∇の右上に小さく2,その隣にfと書かれているように思える。学のないわたしにはいまだに意味はわからないのだけど、どうやらそれがあの魔女を表す記号なのだそうだ。
とある田舎の宗教戦争で戦死したわたしは、その魔女の力によって鎧としてこの世界に蘇ることとなった。肉体はとっくに朽ち、辛うじて残っていた魂をこの鎧に定着させた。あの戦からどれほどの時を躯として過ごしたのかわからないが、故郷を訪ねてみれば、そこは大きなクレーターの底になっていた。
「ある女を殺して欲しいの。あとは好きにしなさい」
その魔女はそう告げて、わたしを自由にした。
彼女は精霊中核市と呼ばれる都市に住んでいるらしい。そこに出稼ぎに来た青年と恋に落ちたのだが、その青年は森に住む女性と婚姻関係にあるという。いつまでも別れてくれない彼に、その魔女は業を煮やし、わたしという凶器を使って、森のなかに住む女性を殺そうとしていたのだ。
「あの戦で何人殺したかわからない。いまさら一人や二人」
生き返ったところで行くところなどないのだが、頭のどこかで彼女を『主』なのだと認識していた。没落したとはいえ、誇り高き騎士のはしくれ。たとえ鎧となっても、主の名には従わなければならない。そう言い聞かし、入ったこともない深い森のなかに脚を踏み入れた。
「あら、いらっしゃい。お客さんなんて珍しい」
「貴女に恨みはないが、この剣の錆になってもらう」
「ふふふ、おかしいの。もうその剣、錆だらけじゃない」
わたしの暗殺計画はその最初の一歩から、かのようなやり取りで躓くことになった。このまま押し切るわけにも、かといって逃げるわけにもいかず、わたしはその素朴な美しさを湛えた女性の前で、ただただ頭を掻いた。
「あ、精霊中核市からあの人の手紙を携えてきたのかしら? ねえ、きっとそうでしょう。最近郵便屋さんもこの森を『邪悪な魔女の森だー』なんて怯えて来てくれなくなったのよ」
「そ……、そうです。旦那さんは元気で、ええと」
「傭兵をしていると言っていたわ。怪我はしていないかしら?」
「え、ええ。多少の擦り傷はあると言っていましたが。それでですね、次の戦もあり、しばらくは帰ってこれないと」
「がっかりー」と目に見えて肩を落とす女性。わたしはなぜだか、もう彼女を殺さなければならないという意識は消え失せてしまっていた。もっと話したい。クレーターの底に沈んだ妻子に心のなかで謝りながらも、わたしは眼の前の女性から眼が離せなくなっていたのだ。
「美味しい紅茶を入れてあげましょう。物々しい郵便屋さん。飲みやすさを重視して城塞都市風のカモミールベースに、覚醒作用のあるフェルミオン属は抑えつつも、やっぱりクォーク草はこの地方の紅茶としては外せないわね!」
急にぺらぺらと喋りだした女性に手を引かれるままに、家の中へと入っていく。天井が低く、柱に頭をぶつけて頭部が転がってしまったが、彼女は「あはは、それ、手品? 面白い~」と笑っていた。わたしはなんと言ったらいいのかわからず、かぽ、と頭を嵌め込んだ。
――紅茶ってどうやって飲めばいいんだ。
※
結果、筆舌に尽くしがたい方法で飲むことが出来た。
ふむ、こんな体になっても魂が活動している以上、食事は必要とするらしい。本当に筆舌に尽くしがたい。もしこの風景を誰かが文章で描写しているとしたら、さぞかし困ることだろう。
「……い、一応、飲めるのね?」
「ええ。自分でもびっくりです」
※
「旦那様から言伝です。ベラトルミ地方の紛争に介入するため――」
「えー」
※
「旦那様から言伝です。ヴァイツェンベック地方の一揆に対応するため――」
「うぇー」
※
「旦那様から言伝です。ダランベール地方での革命が――」
「どれだけ物騒なのよ、この都市は!」
※
それからわたしは彼女の旦那からの言伝を装い、彼女の家を出ては、時間を潰して数日後訪問をするという暮らしをしていた。わたしはますます彼女に心惹かれていった。いつも紅茶をご馳走になり、あわよくばそのまま夕食もいただいた。遠慮はするものの、「作りすぎたんだから食べていってよ」と言われると、席に着いてしまう。
「……まだ旦那様のことを愛していますか」
「モチのロン!」
「そうですか。ごちそうさまです」
「次はいつ来てくれるかしら」
実はもうここに立ち寄る気はなかった。
もうこれ以上、不毛な嘘をつくことはできなかった。主の命に従うのが騎士だというが、これでは騎士の風上にも置けない。そう心に誓って、わたしは精霊中核市を目指すつもりだった。
あの魔女と刺し違えてでも――。
「郵便屋さん」
急に呼び止められて驚いてしまった。
「わたしのために動いてくれるのね。ありがとう」
彼女の瞳孔が猫の目のように細まっていく。
「でもすべて知っているの。『箱庭の魔女』を舐めないで」
『最近郵便屋さんもこの森を『邪悪な魔女の森だー』なんて怯えて来てくれなくなったのよ』と彼女は初めて逢ったときに言っていた。そうか、その噂は間違いではなかったのだ。精霊中核市から遠く離れた森のなかでひとり、旦那の帰りを待つ『魔女』。
「あなたは――」
「わたしは何でも知っているわ。あなたが生ける鎧だということも」
さすがにそれはバレていると思っていたから、特に驚きはしなかった。
「趣味の悪い数式。あの魔女がどうせ、旦那を寝取ったのでしょう。前の喧嘩の傷も癒えたし、魔力もそろそろ回復したから、いい加減カチコミに行こうかしら」
「あの魔女を知っているのか」
「『なんでも知っている』。それに観測の魔女はわたしとは犬猿の仲なの。いっつも同じ男に惚れて喧嘩ばっかり。この前のはだいぶ派手にやっちゃったから、魔女の力を失いかけていたんだけどね」
指先で、わたしの胸元を「うひゃひゃ」彼女の指が撫でた。「変な声出さないの!」ラプラスの魔女が刻んだ魔法陣に何やらを書き足した。『箱庭の魔女』、いままでとは違う熱量の血液が体の中を巡るのを感じた。
「お願いがひとつだけ。どうか、わたしに連なる『箱庭の魔女』たちを助けてあげて。じゃあね、すごく楽しかったよ、空メイルさん」
どこからともなく現れた箒に跨って、彼女は精霊中核市のほうへ飛んでいった。わたしにできることは胸の新しい紋章に手を当て、彼女を見守ることくらいだった。
ほどなくして、二人の『喧嘩』が始まったのだろう。各地で爆裂音が鳴り響き、竜が舞い、グリフォンが踊った。やがて無数の隕石が降り注ぎ、とても『喧嘩』とは呼べないレベルに――、隕石? わたしは妻子の村のクレーターを思い出して、あれはどちらが放った魔法なのだろうと考えていた。
※
幾星霜――。
「おじちゃん、誰ー?」
「あなたのお婆ちゃんにお世話になった者です」
※
幾星霜――。
「おじちゃん、誰ー?」
「あなたのご先祖様にお世話になった者です」
※
幾星霜――。
「死にたい」
「また寝取られたんですか、この血族は」
※
幾星霜――。
まどろみの中で浮かんでは消えて逝く泡を数えていた。
これだけ永く生きていると、人類の悪いところも良いところもそれぞれ等しく見えてくるようになる。それでもいくつかの取り返しのつかない過ちを繰り返して、多少はましと呼べる歴史を重ねつつあったそのころ。蒸気から、石油から、核分裂から、核融合から、あらゆるものを駆使してエネルギーを取り出してきた人類が、ついにというべきか、『魔女』の存在に気がついた。
「おじちゃん、この人達に協力して」
「……」
「はじめてあったとき、わたしのために尽くすって言ったよね? 嘘なの?」
「……」
わたしは彼女の裏でほくそ笑む科学者たちを睨みつける。
「ね、わたしからのお願い」
取っ掛かりさえ見つかれば、技術は結果を目指して驀進を始める。『意志量子力学』の基礎理論の完成は、生ける『箱庭の魔女』と、生ける『ほぼオリジナルの観測の魔女の呪いを受けたモノ』が存在しなければ達成できなかっただろう。しかし、わたしは『箱庭の魔女』の一族に仕えると決めた身、機関に唆されているとはいえ、わたしが協力の意志を見せると、彼女はにぱっと笑った。
「よろいのおじちゃん、大好き!」
「……」
『意志量子力学』、通称魔導理論は通常人には宿せなかったが、『箱庭の魔女』を媒体とすればかなり理論値に整合するように機能するようになっていった。そしてその頃の人類は、容易に同じヒトを増やすことが可能になっていた。
※
「報告です。ベラトルミ地方の紛争に介入するため――」
※
「報告です。ヴァイツェンベック地方を掃討するため――」
※
「報告です。ダランベール地方での拠点施設を――」
※
「どれだけ物騒なのよ、この世界は!」と彼女なら言っただろうか。
ヒトが利用し始めた『魔女の力』。それは世界を二分することになった。すなわち、こちら側の勢力で研究が進められた『箱庭の魔女』の力と、それを行使するクローンたち。そして、あちら側の勢力で研究が進められた『観測の魔女』の力と、それを行使するクローンたち。
かつて一人の男性を取り合ったふたりは、何世代にもわたって同じようなことを繰り返し、ついにはひとつの惑星を取り合って『喧嘩』を行うこととなったのだ。
※
「おじちゃん、誰ー?」
「わたしは――」
無邪気な二人の少女と、その写し身たち。惜しみなく全力をぶつけて『喧嘩』をした結果、この惑星はもう取り返しのつかない状態になっていた。彼女たちが悪いとは思えないが、どこで何を正せば、この結果を回避できたのか、わたしにはもうわからなかった。あのとき、技術協力を惜しめば、『観測の魔女』に蹂躙されていただろう。
運命。
何度目かの『箱庭の魔女』は、そう言いながら、命を運んで、魔法具を作り、神に抗っていた。
「おじちゃん、眠いのー?」
「そうです、ね。ちょっと疲れてしまいました」
あの地獄のような災いを生き延びた少女たちが、わたしに群がってくるのがわかる。かつて焦がれた彼女の写し身もあれば、かの憎き魔女の写し身の少女もいる。根絶やしにしようと思わなかったと言えば嘘になるが、彼女たちに直接の罪はない。たとえ、人類という積み木を、些細な悪戯でバラバラに崩してしまったとしても。
ひとりはあぐらの膝の上で居眠りをし、ひとりは物珍しそうにバイザーを上げ下げしてくる。わたしにはもう動く気力もなかった。見れば、彼女たちを庇った代償に、フェッセンデンの紋章に大きく裂傷が入っていた――。
『ごくろうさま』
そう言われているような気がした。
まどろみの中で浮かんでは消えて逝く泡を数えていた。
※
――追憶は焔より冷たく、氷よりも暖かい。
最期に思い出すのは、平和なとき。極東に逃れたフェッセンデンの魔女の子孫、名前はなんといったか、随分変な読み方だった。嫁いだ関係で苗字はありふれたものだったが。そうだ、あれはサラリーマンをやりながら、大きな寮で暮らしていたときのことだった。
「というわけで、真夏の大☆焼き肉大会でーす!」
と管理人が右腕をあげて。
「ちょっと……、わたし帰るわ……。暑すぐる」
とジャージ姿の白髪の少女がため息をつき。
「おい、野菜もちゃんと持ってきたからな」
と人間の少年が呆れたように言い。
「ご、ご馳走になります……」
とブレザーの内気な少女がジュースを紙コップに注いで。
「おなかすいたー」
とフードを被った鬼の子がわたしを見つめ。
「まさかあの魔女の精製物がこんなことに使われるなんて、ぷぷぷ」
と耳元で座敷童が囁いた。
わたしといえば、八月の灼熱の日差しの中でかれこれ一時間は晒されている。もう身体の表面はあつあつだ。肩のアーマーに油を敷かれ、じゅじゅー、と厚いお肉が置かれた。
「いただきまーす!」
おにくがたべたい。